鍵盤と、あなたの横顔
朝の空気が、なんかこう、やたら平和だった。
トーストが焼ける匂い。スクランブルエッグのふわふわ感。
それから、ニュース番組のキャスターの穏やかな声。
私と白洲さんが並んで、淡々と朝ごはんを食べてる——それだけの光景なんだけど、なんかもう、変に落ち着く。
食器を片づけて、コーヒーを淹れた。
そのままソファに腰を下ろして、しばらくぼんやりとした時間を過ごす。
今日は白洲さんの家に帰ってきて、初めての休日。
窓から差し込む朝の光が、意味もなくロマンチックに見えてしまう。
テレビでは、ゆるめのバラエティが始まっていた。
白洲さんがマグカップを手に、何気なく言う。
「このバラエティ、先週もやってましたね」
「そうですね。再放送ばっかりで、もう“無限ネタバレ地獄”です」
「……無限ネタバレ地獄。なるほど」
「や、そんな真面目に納得されると恥ずかしいんですけどっ!」
他愛ない会話。淡々とした掛け合い。
だけど、それがやたら心地よかったりするの、ずるい。
なんかもう、こういうのが“幸せ”ってやつなんじゃないかって思う。
いや、たぶん違うんだけど。私が本当に手にしたかった形とは違うから。
でも……うん。きっとこれが、私たち二人の“正解”なんだ。
そんな時だった。ふと、奥に見えた一室に目が留まった。
「そういえば……奥のあの部屋、なんなんですか?」
白洲さんはマグカップをテーブルに置き、一息ついてから、ゆるくキッチンの方へ視線を向けた。
「ああ……防音室です」
「防音!? えっ、なんで!?」
「……近所迷惑になるから、でしょうか」
「いやいや、そうじゃなくって!! 何する部屋なんですか?!」
「大きい音を出す部屋です」
「んも~~ッ!!! 何をするために防音室があるんですかっ!?」
「ああ、なるほど」
白洲さんは、フフッと声が漏れそうな表情を浮かべると、私を部屋へと案内してくれた。
あれ? もしかして今の、わざとボケてた? うん?
……だとしたら、白洲さんのボケは高度すぎて、理解できる人が限られるやつかもしれない。
わくわくしながら入ったその部屋は、外からは想像できないくらい静かで、
そして——
ド真ん中には、立派なグランドピアノが鎮座していた。
「うそ、グランドピアノ……!? 白洲さん、弾けるんですか!?」
思わず声が上ずった。だってピアノって、いやグランドピアノって……音楽室でしか見たことないもん!
普通の家にあるピアノって、なんかこう、もっとタンスみたいな見た目してるじゃん! デカい! 凄い! 強い!!
無言で近づいていく白洲さん。その背中がやたら静かで、かっこいい。
「弾けるというほどでは。就職してから、雑談用に趣味をいくつか始めたんですが……そのうちの一つです」
「しゅ、趣味ってレベルじゃないですよ!? え、これ、いくらするんですか!?」
「知り合いから譲り受けたので、意外と安いですよ。設置やメンテは面倒でしたが」
「ほえ〜……」
「趣味のものは、ほとんど処分してしまったんですけどね」
白洲さんが遠い目をした。大切なものなのだろうか?
私はつい、問いかける。
「……でも、これを残してるってことは?」
「大きいので、保留にしていただけです」
「思い入れじゃなかったんかい!」
つっこまずにはいられない! なんなのこの人、そういうとこだよ!
私がプンスコしていると、白洲さんは淡々とピアノの前に座った。
「……少しだけ、弾きましょうか」
「えっ、弾いてくれるんですか!? うそ、やった!!」
テンションが急上昇する私をよそに、白洲さんの指が静かに鍵盤に触れる。
ぽろん。
その音が響いた瞬間、胸の奥のなにかが、ぴくりと動いた。
流れ始めたのは、聞き覚えのあるメロディ。
あれだ、テレビでよく流れてるあのJ-POPのバラード。切ないけど、温かくて、懐かしくて。
私はそっと、ピアノのすぐそばの椅子に腰を下ろす。指の動きが滑らかで、優しくて、息を呑むほど綺麗だった。
音が部屋いっぱいに広がっていく。低音が空気を震わせて、やがて高音がそれを包みこむ。
その重なりが、まるで朝の光みたいにやわらかくて――気づけば、呼吸を忘れていた。
白洲さんの横顔は、いつもの無表情なのに、不思議と穏やかで。
眉の動きひとつ、まぶたの揺れひとつが、全部“音”に見えた。
なんだろ。ずるいな。
ずるいよ、白洲さん。そんな顔、するなんて。
曲が静かに転調した。
流れが変わるのを感じて、そこでようやく、私は我に返る。
「……あの」
演奏が続くなか、思わず声が漏れた。
「白洲さん、あの……いつメロディ弾くんですか?」
数秒の沈黙。そして、さらっとした返答。
「会社の忘年会用に練習しただけなので、伴奏だけですよ」
……え?
「伴奏!? え、これ全部!? メインどこ!?」
「この辺でサビでしたかね」
「じゃあ、せめて歌ってください!」
「キー的に厳しいので無理です。ボーカルは、女性社員の方が担当でした」
「あーもう! じゃあ私が歌います! もう一度サビからお願いします!」
思わず立ち上がって、白洲さんを見つめて待つ。
「……どうぞ」
「心愛、いきまーす!」
白洲さんの伴奏に合わせて、歌った。
笑いながら、ちょっと音を外しながら、思いきり歌った。
ピアノの音に包まれて、白洲さんの横顔をちらっと見て、なんかもう胸がきゅってなるくらい楽しかった。
これが恋じゃないなら、じゃあ何なのって思うけど——。
……何なんだろう。
そんな、休日だった。
* * *
私は今、すごく楽しいと思っている。
だけど、この時間に“終わり”があるって、ちゃんと分かってる。
白洲さんは優しい。真面目で、ちゃんとしてて、そして——
「好きだよ」なんて、言うことはない。
この恋は、たぶん叶わない。叶えてはいけない。
それでも——ほんの少しだけ。
好きな気持ちは、抱えていたいと。
そう、思った。




