穏やかな終わり方
雨上がりのアスファルトを、タクシーが跳ねるように走っていく。ワイパーの残した水の筋が、じわじわと窓を伝い落ちる。
後部座席に座る白洲は、ずっと無言だった。
スマートフォンを握りしめたまま、親指だけが小刻みに動いている。画面を点けては消し、また点けて——その繰り返し。
《心愛が階段から落ちて、今病院です。大事には至っていませんが、ご一報まで》
送信者は、月城美紗。心愛の母親だった。
“至っていない”という言葉の曖昧さが、頭の中で何度もリフレインする。
骨折か。打撲か。脳震盪か。それとも——。
思考は落ち着かず、視線は窓とスマホのあいだを行ったり来たりしていた。
信号で車が止まるたび、白洲の足が無意識に揺れる。時計を見る。時間は進まない。
ネクタイは歪んだまま。ジャケットを羽織る時間も惜しんで飛び出した。
前髪は汗で張りつき、シャツの袖口にはうっすらと湿った跡。
白洲昭三、四十歳。
いつもは隙のないその姿が、今は見るも無残に乱れている。
「……まだか」
思わず口をついて出た声を、白洲自身が驚いたように飲み込む。
「到着しました」
運転手の声に、ようやく現実へ引き戻される。
白洲は無言のままスマートフォンをポケットに押し込み、財布を取り出した。
紙幣を差し出しながら、わずかに声が掠れる。
「……おつりは結構です」
ドアが開く音を待つことなく、白洲はハンドルに身を乗り出して外へ飛び出した。
背後で運転手が何かを言った気がしたが、もう耳には届かない。
湿った空気、雨の残り香、靴底を叩く水音。それらすべてを置き去りにして、白洲は病院のエントランスへと駆け込んだ。
* * *
白い照明に照らされた廊下を、白洲は早足で進んだ。革靴の底が床に打ちつけられるたび、静かな空間に乾いた音が響く。
受付で病室番号を確認するのもそこそこに、エレベーターの到着を待ちきれず階段を上る。
胸の奥では、まだ何かがざわついていた。ただ、それが不安なのか、焦りなのか、自分でも判然としなかった。
そして、ようやく辿り着いた先——。
心愛がいる病室には、静かな空気が流れていた。
ベッドの上には、脚を少し高くして横たわる彼女の姿。
足首には湿布が貼られ、包帯が軽く巻かれている。
入院するような怪我には見えなかった。
ただ、それを確認したのは、白洲がドアを開けた直後だった。
「……へ?」
勢いよく開かれたドアの向こうに、汗だくの男が立っていた。
髪は乱れ、サマースーツの上着すら羽織っていない。
その姿に、心愛は目を丸くした。
「白洲さん……!?」
「怪我の状態は? 骨折ですか? あるいは……」
一気に詰め寄る白洲。
いつもの落ち着いた雰囲気はどこにもなく、明らかに動揺していた。
「あ、えっと……」
戸惑う心愛の代わりに、椅子から立ち上がったのは——
「ただの捻挫です」
にこりと微笑んだのは、心愛の母・月城美紗だった。
その笑顔が、病室の空気を一気に柔らかくする。
そして次の瞬間、白洲の手から鞄がドサリと床に落ちた。
「……よかった……」
心の底からの安堵が、声になって漏れ出る。
呼吸が荒く、胸が上下している。その姿を見て、心愛は思わず息を呑んだ。
いつもはどこか余裕のある彼が、こんなにも取り乱しているなんて——。
だが、それを口にしてしまった直後、白洲は自分の言葉を打ち消すようにメガネに手をやった。
「……いえ、良くはありませんね。失礼いたしました。不幸中の幸いといいますか……酷い怪我でなくて、本当に、よかったです」
言葉は少し上ずっていた。
それでも、そこに偽りはひとつもなかった。
* * *
その後、母親が一足先に帰宅し、病室にはふたりきりの時間が流れ始めた。窓の外では、街の明かりがぼんやりと滲んでいる。
「課題、やっと終わったんですよぉ。もー、白洲さんにも見せたかった……私、すごい頑張ったの」
「そうですか。……ご苦労さまでした」
ぎこちなくも、確かに会話が戻ってくる。
あの気まずかった空気が、少しずつ、ゆっくりと溶けていった。
「……ひとりで、寂しかったですか?」
ぽつりと尋ねた心愛の声は、どこか不安げだった。
白洲は、しばらく黙ったまま視線を落とす。
心愛の胸の鼓動が、聞こえてしまいそうなほど静かな時間。
「……寂しかったです」
静かに落とされたその言葉は、想像よりもずっと近い声だった。それだけで、心愛の心臓が跳ねる。
顔が一瞬で熱くなる。
体温が急に上がった気がして、心愛は思わずシーツの端をきゅっとつまんだ。
「そ、そうですか……えへへ……」
視線のやり場に困りながらも、どこか嬉しそうに笑う。
白洲は、そんな彼女の笑顔を見て、ほんのわずかに口元を緩めた。
病室には、やわらかな沈黙が満ちていた。
その沈黙が、どんな言葉よりも温かく感じられた。
* * *
その後は、たわいもない話が続いた。課題の愚痴や教授の口癖、大学のカフェの新メニュー。
そんな他愛もない話題に笑い合ううちに、いつの間にか、あのぎこちなさは消えていた。
「――なので、白洲さんのお家に戻ろうと思います」
帰り際、心愛はそう切り出した。自分でも驚くほど、穏やかな声だった。
白洲は一瞬だけまばたきをし、それから小さく息を整えた。
目の奥の緊張が、ゆっくりとほどけていく。
「……はい。待っています」
その声は、どこまでも誠実で、優しかった。
* * *
そして数日後。
心愛は、何事もなかったかのように白洲の家の玄関を開けた。
靴を脱ぎ、リビングに足を踏み入れる。見慣れた空間。静かな空気。
あの気まずさは、もうなかった。
けれど——心のどこかで、彼女は思っていた。
(やっぱり、この恋は……きっと、叶わない)
“好き”という気持ちは、もう伝えてしまった。だから今は――最後まで、笑って過ごそうと思う。
それがきっと、いちばん穏やかな終わり方だから。




