いつもの朝、もう戻れない朝
朝、目が覚めた瞬間、肌に触れる空気の冷たさに、小さく肩が震えた。静まり返った部屋に、エアコンの送風音だけが淡々と流れている。
もう少しだけ、布団の中にいたかった。目を閉じて、何も考えずにいたかった。……でも、それは許されないような気がした。
そっと身を起こし、音を立てないようにベッドを抜け出す。足元のラグに触れた感触が、ひどく現実的だった。
ダイニングには、昨日と同じ朝食が静かに並んでいた。トーストに、ふわふわのスクランブルエッグ。グリーンサラダとカットフルーツ。
色とりどりのプレートは、まるで絵本の中の朝みたいに綺麗で――でも今は、その綺麗さすら胸に刺さる。
「いただきますっ」
小さな声が、乾いた空気を割った。自分で思ったよりも明るく出せた声に、少しだけ安堵する。けれどその明るさは、どこか嘘くさくて……白洲さんの顔が見れなかった。
空元気……というよりは、“元気な自分”をなぞっているだけ。そうしていれば、昨日のあの時間も、あの言葉も、ちょっとだけ遠ざけられるような気がした。
白洲さんは、何も言わずにナイフとフォークを動かしていた。無駄のない動き。静かな所作。トーストにバターを滑らせる手つきが、まるで朝の風景に溶け込んでいるようで――
だからこそ、あの言葉が、やけに鮮明に蘇ってしまう。あの表情も、あの温度も、消えてくれない。
無言の時間が続く。だけど、気まずいわけじゃない。……いや、きっと気まずいのだ。でもふたりとも、それに気づかないふりをしてる。
“いつも通り”を演じ合って、その中に昨日の痛みを隠そうとしている。だけどそれは、きっとバレバレで――演技すればするほど、うまくいかない感じだけが、じわじわと苦しくなっていく。
朝食を終え、私たちは黙々と荷造りをした。大きな窓からは綺麗だった海が見える。でも今はあまり見ないようにしていた。
部屋を軽く整え、荷物を車に運び込む。白洲さんと一緒に宿のスタッフに挨拶をして、レンタカーは静かに走り出した。
視線は合わず、会話も続かない。車内のラジオも切ったまま。行きにはあんなに盛り上がった音楽も、今はただのノイズに思えて、再生ボタンを押す気になれなかった。
* * *
最初に向かったのは、空港近くのショッピングモール。
旅の締めくくりに、ちょっとしたお土産を見ておこう――それだけの、なんてことない流れだった。
「観光地でお土産を買うなら、こういう大型モールのほうがコスパはいいんです。量も多くて、値も落ち着いてるので」
そんなふうに、白洲さんは淡々と“お土産豆知識”を語っていた。いつもなら「さすが白洲さんっ」って感心できたのに、今日はその声が、右から左へ通り過ぎていった。
「あっ、このちんすこう、会社の皆さんに良さそうですね! 小分けされてるし、渡しやすいかもっ」
笑顔を作って、明るく声をかける。返ってきたのは、小さな頷きだけ。それでも、私はそれ以上、何も言えなかった。
それだけで、わかってしまう。“ああ、まだ昨日のままなんだ”って。
白洲さんは、感情をあまり顔に出さない。けれど今日は、無言の時間がやけに長く感じる。ほんの少し、ぎこちない。気まずさの輪郭が、沈黙の中にじんわり浮かんでいた。
買い物を終え、レンタカーを返却し、空港までの送迎バスに乗り込む。窓の外に広がるのは、青い空とヤシの木、ゆるやかに揺れる日差し――南国の風景は相変わらず美しくて、どこか夢みたいだった。
でも、気持ちはもう旅の終わり。いや、それだけじゃない。
“ふたりの関係”が、終わってしまう――そんな予感があった。でも、それを口に出すことはなかった。言ってしまえば、本当に終わってしまいそうで。
……白洲さんは、何を考えていたんだろう。あのとき、私があんなことを言わなければ――でも、言わずにはいられなかった。
飛行機に乗り込み、離陸のアナウンスが流れる。座席に深く身を沈め、目を閉じると、ふわりと身体が浮いた気がした。無重力に揺れるその一瞬――ふと、あの浜辺での記憶がよみがえる。
夕暮れの海。風に吹かれていたシャツの裾。そして、あのときの白洲さんの横顔。遠くて、優しくて、でも……どこか触れられないままの声。
* * *
最寄りの空港に到着すると、白洲さんが淡々とタクシーを手配してくれた。無駄のない動き。そう、すべてが“いつもの白洲さん”だった。
タクシーに揺られて自宅に戻る。家に着いたとき、少しだけほっとした。旅先では張っていた気が、緩んでしまったのかもしれない。
「お風呂、先に入りますね」
そう言って、私は脱衣所へ向かう。白洲さんは「どうぞ」とだけ答えて、旅の荷物を黙々と整理し始めた。
湯船の中で、私はぼんやりと天井を見つめる。
楽しかったはずの旅。笑って、はしゃいで――あの浜辺で、少しだけ期待してしまった。けれど、最後に残ったのは胸の奥に刺さったままの言葉だけで。
あんなにきらきらしてた時間が、今では、少し苦い記憶として沈んでいた。
お風呂から上がると、食卓には夕食が並んでいた。白洲さんが用意してくれていたのだろう。いつもの気遣いが、今はどうしようもなく優しすぎて、逆に辛かった。
「「いただきます」」
また、“いつもの時間”が流れていく。けれど、“いつも通り”の皮をかぶったその空気の下に、昨日からの“答え”だけが、まだじんわりと、胸の奥に残っていた。
そして夜。おやすみの挨拶をして自室に入った私は。
隣の部屋にいる白洲さんに聞こえないように、声を押し殺して、泣いた。




