「今日のお見合い、私ですけど?」
プールの縁、差し出されたタオルが肩にかけられる。
髪も服もぐっしょり濡れた少女は、しゅんとしながらも赤面が止まらない。
――なにこの人、ダイブの仕方も、美しすぎた。
びしゃびしゃのスーツ姿で、でもきちんと髪をかきあげながら、白洲は彼女をそっと見つめた。
「すまないね。もしもう少し早く動けていれば……その綺麗な髪が、濡れずに済んだのに」
その声音は、淡々としていながらも、どこか優しい温度を含んでいた。
「――っ!!」
少女の顔面温度が一気に急上昇。
(え、え、待って……今のって、口説き文句じゃないの!? でも上品!!)
慌てて髪をかきあげながら、彼女はどうにか会話を繋ごうとする。
「……変じゃない、ですか? びしょ濡れで……」
少女がうつむきながらそう呟くと、白洲はほんの少しだけ首を横に振った。
「大丈夫ですよ。……濡れていても、十分に可愛らしいです」
にこ、と軽く営業スマイル。
――その笑顔が、キラキラのエフェクトと共に少女の中でスローモーションになった。
(わあああああ!? 無理! 好き!! さっきまで“無理かも”とか思ってごめんなさいィィィ!!)
もう完全に“落ちる気満々”の脳内モードに突入した。
スタッフの機転で、ホテル側が控室とシャワールームを手配してくれた。
「よろしければお使いください」と丁寧に案内されたその部屋は、通常の客室を一室、そのまま貸し切ってくれたようだった。応急措置としては破格の対応──おそらくは、同席していた重役の顔が利いたのだろう。どうやら“プールに落ちたお客様への特別対応”という建前のもと、かなり柔軟に便宜を図ってくれたらしい。
エレガントな内装に包まれたその空間で、少女は用意されたタオルとバスローブにくるまりながら、ベッドの端にちょこんと腰を下ろしていた。
一度はバスルームで体を拭き終えたものの、未だ高鳴る心臓のせいで落ち着けず、ぎゅっと膝を抱えている。
(……あんなイケメン、ズルいでしょ……)
顔を覆っては転げ回り、また思い出しては顔を真っ赤にする。
一方、白洲は別室でシャワーを借りた後、フロントが見繕ってくれた替えの服に袖を通していた。ホテルの備品らしくシンプルな白シャツとグレーのスラックスだったが、体型に合ったサイズ感のおかげで、妙にサマになってしまっている。
(……彼女の着替えはどうなっただろうか)
バスローブ姿のままでは外に出るわけにもいかない。白洲はスタッフに声をかけ、近くのアパレル店舗の所在を確認する。
控室の前に立ち、白洲はノックした。
「……失礼します」
数秒後、扉の向こうから小さな声が返る。
「……はい」
白洲は扉越しに、穏やかな声で続けた。
「……お怪我はありませんか。ご無理でなければ、着替えをお持ちしようかと。もしよければ、私が用意します」
「……え?」
「近くに店舗があるそうなので。……何か、希望はありますか?」
その一言に、少女の胸がズキュンと射抜かれた。
(やだ……優しい。しかも、さらっとそういうこと言うの、ズルい……)
「は、はいっ! よろしくお願いしますっ」
「えっと……あの、落ち着いた感じで……でも、あんまり地味じゃなくて……かわいいのが……」
少女は頬を赤らめながら、もじもじと指先を絡めた。
「――その、白洲さんが見て、変じゃないやつ……がいいです」
◇
ホテルの提携ショップで、白洲は慎重に洋服を見て回っていた。
(彼女の身長は……だいたい一五〇センチ前後。色は、白やモカのような落ち着いた中間色が似合いそうだったな)
ウィンドウ越しにディスプレイされた白いノーカラーブラウスと、柔らかなモカブラウンのフレアスカート。
それに、室内用として履きやすそうなシンプルなパンプスも添えて、スタッフに伝える。
「このセットでお願いします。タグは外しておいてください」
手提げ袋を受け取った白洲は、そっと彼女の部屋をノックする。
「……失礼します。着替えを持ってきました。ドアの前に置いておきますので、よろしければ……」
「は、はいっ……!」
部屋の内側から返ってきた声に、白洲は軽く一礼し、その場を離れた。
ロビーへ戻るには早すぎる。廊下の一角にあるアートパネルの前に立ち、ふと腕時計に視線を落とす。
――数分後。
カチャリ、とドアが開く。
「……どう、ですか?」
そこに立っていたのは、白洲の見立て通りの装いをした少女だった。
白いノーカラーブラウスに、落ち着いたモカブラウンのフレアスカート。少し彼女には大人っぽすぎるかとも思えたが――いや、大丈夫。あの柔らかな雰囲気には、これくらいの品の良さがきっと馴染む。まるで最初から彼女のために仕立てられたようだった。
「……よくお似合いですよ」
「え、えっ!? ちょっと、なんで……なんでこんなにぴったりなんですか!? 私のサイズも色の好みも、完璧すぎて怖いんですけど!?」
スカートの裾をつまみながら、少女はぐるぐると身を回す。
「え、ほんとに前から観察してたんじゃ……!?」
「……単に、見栄えのよさそうなものを選んだだけです」
淡々と返す白洲。その顔に照れの色は一切なく、ただひとつ「うまくいって良かった」と静かに安堵しているだけだった。
着替えを終え、再びロビーに戻ってきた二人。
重役たちの姿はまだ戻っていなかった。おそらく、先ほどのレストランに残ってコーヒーでも飲んでいるのだろう。 場を外している間に若い二人だけで話す時間をつくる――そんな気遣いだったのかもしれない。
ふとした間に、白洲は彼女に問いかける。
「……ひとつ、確認してもいいですか」ロビーのソファに腰を下ろしたまま、白洲は静かに口を開いた。「君と、あの女性――落ち着いた方でしたが……どういったご関係ですか?」
「あ、母です。びっくりしました?」
「では……あの場にいた私の“お見合い相手”が、君のお母さんで……」
「え? 違いますよ? 私です、お見合い相手」
少女が目をぱちくりさせる。
「今日のお見合い、私ですけど?」
「………………は?」
白洲の動きが一瞬、完全に止まった。
白洲の目がわずかに見開かれる。
「……君が?」
「はいっ。ちゃんと、紹介されてきたんですけど……」
「メゾン・ド・ベル女子大学の三年、月城 心愛っていいます」
白洲の目がわずかに見開かれた。
「えっ、えっ……? 今さらですか? 私、紹介されて来たんですけど……」
心愛が小首をかしげたちょうどそのとき、上司と重役、そして控えめな足取りで母親も一緒にロビーへ戻ってきた。
「いやぁ、すまなかったねぇ。急な話でバタバタしちゃって……」
「いえ。こちらこそ、お世話になりました」
白洲はまだ混乱から立ち直れずにいた。思考の整理が追いつかないまま、儀礼的に頭を下げる――その瞬間、重役がさらりと口にする。
「聞いてると思うが、“お見合い同棲”ってことで、ひとつ頼むよ」
「……?!」
あまりに自然なトーンで放たれたその言葉に、白洲の眉がぴくりと動いた。
(……今、なんと?)
言葉を聞き返す余裕もなく、脳内に混乱の霧が広がっていく。それでも、彼は顔色一つ変えずにいた。
「ええ、だから……このたびは仮同棲という形で、しばらく様子を見てもらうって話でね?」
「……聞いておりませんが」
淡々と返した声の裏で、白洲の思考はフル回転していた。
(落ち着け。これは想定外だが、まだ契約ではない。仮だ。形式的な……名目だけの……)
「白洲……すまん。」
小声で呟く上司が、視線を逸らす。
(感情を乱すな。相手に恥をかかせるな。自分が取り乱してどうする……)
白洲は自分の内側で荒れ狂う動揺を、硬く蓋をするように封じ込めた。
「はいっ! よろしくお願いします、白洲さんっ!」
満面の笑顔で頭を下げる心愛。
――即答!?
白洲の脳内では、瞬時に複数の思考が交差していた。
断れば場の空気は凍る。彼女に恥をかかせる。上司の顔も潰れる――だが、そもそもこんな流れは聞いていない。こんな不確かな形で人生の一部を預けるなど、本来ならあり得ない。
(……まずい。今ここで否定すれば、彼女は矢面に立たされる。だが……これを受け入れるのは……)
混乱の渦の中で、白洲は必死に思考を巡らせた。
(時間が必要だ――いや、駄目だ。今すぐ応じなければ場が崩れる。引き延ばしは許されない)
次々に浮かぶ反論や疑問――白洲の中では思考が激しく交錯していた。だが、感情を押しとどめ、静かに息を吐く。
「……承知しました。よろしくお願いします」
その言葉の裏には、複雑な葛藤が渦巻いていた。
だが、隣でまっすぐ頭を下げる少女を見て――今はそれ以上を語らなかった。
(……まあ、そのうち、自然に終わるだろう)
理屈と礼儀のあいだで折り合いをつけながら、白洲は静かに現実を受け入れる。
(いきなり同棲とか……って思ってたのに、マジで全然アリすぎるんですけど!?)
心の中で静かに拳を握る心愛。
笑顔はあくまで無邪気。けれどその奥には、揺るぎない決意が灯っていた。
もっと、この人のことが知りたい。
その想いは、胸の奥に小さな火をともす。
静かで、けれど確かな焰――。
日常の中にひっそりと、恋の予感を忍ばせながら。
“性欲ゼロ”の男と、恋に一直線な地雷系乙女の同居生活が、いま――決定した。