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運命の相手は濡れて現れる

 昼休みが終わり、オフィスに静けさが戻る。

 パチパチとキーボードを打つ音。そのリズムに乗るように、男の手元で赤ペンが走る。

 窓の外では、初夏の陽射しが眩しくビルの壁を照らしていた。


 白洲(しらす) 昭三(しょうぞう)。地域再生を専門とするコンサルティング会社の地方支社統括。社内では無表情で感情表現に乏しいことで知られ、仕事人間という言葉がこれほど似合う男も珍しい。

 白髪交じりの髪をオールバックに整え、フレームの細い眼鏡をかけた端整な顔立ちは、どこか近寄りがたい印象を与える。

 ただし、対外的には笑顔を忘れない営業的処世術も身につけており、客先ではきっちりとした印象を与える。だが、その実績は社内でも一目置かれており、上層部からの信頼は厚い。


 「白洲、ちょっと」


 不意に声をかけてきたのは、彼の直属の上司、本社の経営企画部長・長谷川はせがわだった。


 「はい。何か御用でしょうか?」


 白洲はペンを置き、静かに立ち上がる。

 案内されたのは、いつもの応接室。薄いグレーの壁紙に、簡素なソファとテーブル。仕事上の打ち合わせ以外に使われることは滅多にない場所。


 「……なあ、白洲」


 上司が妙に落ち着かない様子で話を切り出す。


 「お見合い、興味ないか?」


 白洲の手が止まる。


 「……はい?」


 眉ひとつ動かさず、彼は淡々と返した。


 「いやな、先方は由緒ある家柄でな。うちの重役とご縁があって……まあ、紹介された以上、無下にもできんのよ」


 白洲は一呼吸置き、少しだけ目を伏せた。


 (恋愛……か。そもそも、自分はこれまでの人生で――誰かに心を奪われたことがあっただろうか? 顔が好みだとか、一緒にいて落ち着くとか、そういう感覚さえ、どこか他人事のように感じてしまう。たぶん、自分は――誰かを“好きになる”という体験を、一度もしたことがないのだろう)


 仕事のために始めた趣味は数知れず。フットサル、テニス、クライミング、果ては陶芸まで。

 (結局、どれも“目的のため”であって、心から楽しいと思えたことはなかった。情熱というやつが、自分には足りていないのだろう)

 だからこそ、恋愛などという非合理なものに、心を動かす理由が見つからない。


 「申し訳ありませんが、そのような気持ちは――」


 「頼む! せめて顔だけでも見てやってくれぇぇ……!」


 土下座の構えまで取りそうな勢いで頭を下げる長谷川。

 

 白洲は静かに彼の姿を見つめ、口を開いた。


 「……正直に申し上げて、こういった形式的な出会いには抵抗があります。感情の伴わない関係は、相手にも失礼だと思うので」


 「わかってる、わかってるよ……でもな、先方の立場もあって……断るに断れん状況なんだ。お願いだ、顔を見せるだけでいい。君なら、きっと悪いようにはならん」


 白洲は一度目を伏せた。


 無意味なことだ。合理的でない。だが――


 (この人――長谷川さんがここまで下手に出るのは珍しいな……)


 「……会うだけなら」


 ため息混じりの声は、理屈よりも空気を読んだ結果だった。


 ◆


 日曜の昼下がり。

 白洲は、その都市で最も格式のあるホテルのロビーに立っていた。


 ガラス張りのエントランスから差し込む自然光が、高級感あふれる大理石の床に反射している。内装はクラシカルでありながらモダンさも兼ね備えており、都会的な洗練と、古き良き重厚感が共存していた。


 (ここに来るのは、役所や企業の要人と同席する会食のときくらいだな……)


 ふだんは足を踏み入れることのないこの空間に、自分が私的な目的で立っているというだけで、やや居心地の悪さを感じる。

 濃紺のジャケットにグレーのスラックス、白シャツというビジネスカジュアル。髪はいつものように、オールバックで整えている。手には、あくまで形式的な意味での手土産として、和菓子の紙袋。


 「……さて」


 ロビーの片隅には、上司長谷川と重役、そして見知らぬ女性がふたり。


 ひとりは、肩までの髪をきちんとまとめ、薄いベージュのスーツに身を包んだ40代前半の女性。品のあるパールのネックレスと、淡いローズの口紅。全体に柔らかな雰囲気を醸しつつも、眼差しには“見る目”の鋭さが宿っている。背筋を正して座る姿は、いかにも“育ちの良い人”のたたずまいだった。


 そして、その隣に座るのは――


 (娘さん……だろうか?)


 ツインテールの小柄な少女。


 胸元まである黒髪を高めの位置で結び、耳には控えめなパールのイヤリング。フォーマルな印象の白いワンピースに、薄いラベンダー色のボレロを羽織っている。きちんとした装いなのに、どこか“お人形感”のある可愛らしさがにじみ出ているのは、整った顔立ちと華奢な体格、そしてなによりその大きな瞳のせいだろう。


 (……あの女性が、相手か)


 白洲は自然と40代女性に向かって一礼する。


 「白洲です。本日はお時間いただきありがとうございます」


 「いえいえ、こちらこそ……ふふ。私は月城つきしろ 美紗みさと申します。月城つきしろ 鷹臣たかおみの娘でして。……お会いできて光栄です。どうぞよろしくお願いいたします」


 その横で、ツインテールの少女が明らかに「うわ、オッサン……無理……」という顔をしていた。


 (……まあ、そうだろうな)


 白洲は内心だけで苦笑し、場をやり過ごそうとした。


 白洲の上司である長谷川と、今回の縁談を取り持った重役――月城 鷹臣が、軽く紹介を挟みつつ世間話を始める。白洲も最低限の相槌は打つが、心ここにあらずといった様子だった。  普段であれば、笑顔を添えて礼儀正しく振る舞うのが彼の処世術だ。しかし今日は、どうにも気が乗らない。  “会うだけ”と承諾した手前、あまり深入りする気にもなれず、表情も自然と曇ってしまう。


 月城とはこれまでにも何度か顔を合わせたことがあるが、こうした“改まった場”でのやり取りは初めてだ。だからだろうか、普段よりも少しだけ丁寧な言葉遣いと、距離を取ったような物腰を感じる。


 「白洲くん、久しぶりだね。今日はわざわざありがとう」


 「いえ、こちらこそ……本日はお招きいただき恐縮です」


 「いやいや、こうして落ち着いて話せるのも久しぶりだよ。最近どうだい、相変わらず忙しいのか?」


 「ええ、おかげさまで。変わらず書類と睨めっこの日々です」


 「はは、君らしいな。まあ、今日は肩の力を抜いて。堅苦しいのは抜きにして、気軽に食事でもしよう」


 会食の場として案内されたのは、ホテルのプールサイドに併設されたレストランだった。屋内ながら天井が高く、緑をふんだんに配した南国リゾート風の空間。

 テラス越しには、淡い緑に染まりはじめた街路樹が揺れている。


 (ああ、なるほど……あそこが噂の“水辺のダイニング”か。確かに雰囲気はいいが、こういう場に私がいていいのか、少し戸惑うな)


 高級ホテルの中でも、特別な日のために使われることが多いそのレストラン。

 白洲にとっては、仕事の打ち合わせで数度足を運んだ程度で、個人として入店するのはこれが初めてだった。


 「すみません、ちょっと……お手洗いに」


 注文を終えた直後のタイミング。まだ場の空気も固まらないうちに、少女はすっと立ち上がった。

 動作は自然を装っていたが、明らかに逃げ腰だった。ヒールのある厚底サンダルを履いており、歩きづらそうな足元で、それでも焦るようにレストランの出口へ向かう。


 ――その瞬間だった。


 「きゃっ……!」


 右足の厚底がわずかにグキッとひねられた。


 「わっとっとっ……!」


 バランスを崩しかけた瞬間、とっさに転倒を避けようと一歩、二歩と前に足を出す。


 「……!」


 咄嗟に踏みとどまろうとしたものの、足元がついてこず、数歩踏み出した先はプールの縁に近づいていた。

 白洲の目の前で、少女がバランスを崩し、体ごと傾く。


 (間に合うか……?)


 身体が前に出かけたが、距離が足りない。

 倒れこむ姿勢のまま、彼女はプールの縁を越えた。


 (……無理か)


 思考がそう呟いた瞬間、足が地を蹴った。


 ジャケットを脱ぐ暇も、靴を脱ぐ余裕もない。

 

 (仕方ない――)


 革靴のままプールサイドを駆け、


 バシャァッ。


 そのまま、音を立てて水へ飛び込んだ。


 水の中、少女の細い腕を掴み、素早く体勢を整える。

 彼女の顔が水面に出るように支えながら、白洲は静かに水をかいた。


 「大丈夫ですか?」


 少女は、びしょ濡れのまま、呆然と彼を見つめていた。


 「ありがとう……ございます……」

 「いえ。立てますか?」


 濡れた髪が額に垂れた白洲は、眼鏡を外して顔を上げる。


 その瞬間――。


 (……はっ!? な、なにこの人、えっ、待って!?)


 キラリと光る水滴、濡れた前髪の下から現れた整った横顔、涼しげな眼差し。

 少女の頭の中に、眩しいスポットライトとピンクの花びらが舞い始めた。


 (デ○ッド・ボウイ……!?いや、でもちょっと違う! もっと日本人で、もっと優しくて、でもやばい!)


 きゅううぅぅん……と、胸の奥が締めつけられる。

 彼女の脳内では今、乙女ゲームのキラキラ背景と効果音が大音量で鳴り響いていた。


 ――なにこれ、やばいやばいやばい……! これ絶対、乙女ゲーのSSRスチルのやつじゃん!? っていうかイベント限定でしか出ないやつぅぅぅ!?


 ドクンドクンと高鳴る鼓動に、自分の顔が真っ赤になっていくのがわかる。

 口を開いたら変な声出そう。でも言いたい。


 (……好き、かも。やば、え、待って、無理好き、無理)


 ――たぶん、私、もう戻れない。

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