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初デート①

 今日という日は、絶対にしくじれない。


 なにせ、白洲(しらす)さんと“はじめてのデートっぽいお出かけ”なのだ。

 目的が何であれ、名目がどうであれ――ふたりきりで、プライベートな時間を共有するという事実に、変わりはない。


 心愛(ここあ)は昨日の夜から、気合を入れて準備をしていた。服はもちろん、香水の強さ、リップの色、下着の色まで、フル調整済み。

 目覚ましは三重にセットし、万が一に備えて早起きにも成功。朝ごはんは“お腹が出ない軽食”でサクッと済ませた。完全に戦闘態勢である。


 そして今――最大の難関、髪型というラスボスに挑もうとしていた。

 鏡の前、ツインテール用のゴムを指に巻きつけながら、心愛(ここあ)は自問する。

 

 白洲さんに初めて髪型を褒められた――という記憶は、実は存在しない。けれど、どうしても忘れられない瞬間がある。


 あの日。見合いの会場横にあったプールへ、心愛は派手にダイブしてしまった。濡れたドレス、滴る髪。どう考えても最悪の初対面。


 ――白洲さんは、ダイブの仕方も、美しすぎた。


 びしゃびしゃのスーツ姿で、それでもきちんと髪をかきあげながら、私をそっと見つめて……。


 ――すまないね。もしもう少し早く動けていれば……その綺麗な髪が、濡れずに済んだのに。


 その声音は、淡々としていながらも、どこか優しい温度を含んでいた。あのときの彼のまなざしを、今もはっきりと思い出せる。


「綺麗な髪」って……それって、あのとき私、ツインテだったし――

 ――つまりつまり、白洲さんはツインテールが好きなんだ!!


 心愛は記憶を美化し、自己解釈を上塗りしながら、ツインテール用のゴムをミョンミョンと伸ばしていた。


「でも……今日は、デートだし。彼女っぽく、見られたいし……」


 視線を上げた先に、ハンガーにかけられた今日の勝負服が見える。

 落ち着いたベージュのワンピース。白いブラウス。大人っぽくて清楚で、ちゃんと“隣に並べる”彼女になるための装い。

 心愛は両手を前に出し、空気を押さえるようにそっと下げて――フーッと大きく息を吐いた。


「冷静になれ、月城(つきしろ)心愛(ここあ)……この服装に、ツインテールは……似合わない」


 鏡の前で目を伏せる。そして次の瞬間、ピシッと顔を上げて、巻きアイロンを手に取った。


「孔明は言っている……“本日、髪は下ろして内巻きが吉”とッ!!」


 決め顔で叫びながら、軽く指先を震わせる。


「でも……ツインテがダメとは言ってないし……今日はお守りとして、持っていこっかな……」


 ゴムを指にかけ、手のひらを天に掲げ、どこか遠くを見つめるように言葉を続ける。


「諸葛孔明は言っていた……内巻きツインテの備えあれば、すべての男は落ちる――とッ!!」


 ……いや、たぶんそんなことは言ってない。でも、恋する乙女の思考にブレーキなんて存在しないのだった。


 ◇

 

 洗面所に立つ白洲は、手元に置かれた見慣れぬ整髪料を見つめていた。


 ワックス。

 派手すぎず、だが若干、彼の普段の趣味からは外れているパッケージ。

 「ナチュラル束感で、ギャップ魅せ」などという文言に、未だに馴染めない。


「……また、何を思い出して……」


 苦笑めいた息が漏れる。先日、朝の支度中――彼女が不意に鏡越しに尋ねてきた。

『白洲さん、髪下ろさないんですか? ……ほら、前にちょっとだけ崩れてた日、めっちゃ良かったのに……♡』


 またあるときは、風呂上がりの彼を見て、

『あっ、その髪、デビッド・ボウイ感ある〜! ふふ、ギャップ萌えってやつですねっ』などと、本人は軽口のつもりだろうが、妙に印象に残るようなことを言っていた。


 ――そして、今。


 目の前には、買ってしまったワックス。

 使ったこともないくせに、「なんとなく」ドラッグストアで手に取ったものだ。


「……まさか、この歳で髪型に悩むとは」


 鏡越しに映る自分を、じっと見つめる。


 たかが髪型。

 されど、彼女が何度も言葉にしてくれた“自分らしくない”姿。


 その記憶を、気にしている自分。気にすること自体が、何より厄介で――どこか照れくさい。

 白洲は再度、洗面台の前に並んだ青い整髪ジェルと見慣れない赤いワックスを、じっと見つめた。


「……爆弾処理班のようだな。赤か青か、選ぶのは……」


 慎重に、前髪を少しだけ落としてみる。ワックスを薄く馴染ませながら、指先で形を整える。


「私は……好きになって、ほしいのか?」


 静かに、自分に問いかける。鏡の中の男は無表情のまま――だが、整えた前髪をしばし見つめたあと――彼は静かにため息をついた。


 ◇


 心愛が準備を終えリビングに入ると、そこには既に白洲がいた。


 ネイビーのジャケットに、淡いグレージュのシャツ。いつものようにこざっぱりとした服装だが、なにより目を引いたのはその髪型だった。


 ――前髪が、下りている。


「……え、ええええっ!?」


 心愛の口から、素っ頓狂な声が漏れる。


 何が起きたのか、理解が追いつかない。あの鉄壁オールバック男・白洲昭三が、髪を、前に、下ろしている……だと……?


「……どうかしましたか?」


 彼は至って自然に、テーブルの上に置いた書類の整理を続けている。だが、その動作にさりげなく指を通す仕草があり――髪のことを“意識していない風”で“意識している”のが、もはや露骨だった。


「し、白洲さん……もしかして、その髪……!」


「風が強い日は、かえってオールバックが乱れるんですよ。なら、落ちて見えるほうが自然かと」


 白洲の言い訳には……少し無理があった。けれど、彼は真顔でそう言い切ったのだった。


「っ、あ、あの、そ、それ……!」


 心愛は思わず、ソファの背もたれを抱きしめて、もふもふに顔をうずめた。


「かっこよすぎるんですけどぉ……!!」


 ぷしゅう、と見えない蒸気を噴きながら悶絶する彼女を、白洲はやや首をかしげて見やった。


「そうですか。……ありがとうございます」


 相変わらずの無表情ながら、ほんのわずか、口元が緩んだ――ように、見えた気がした。


「というか心愛さんも、随分と印象が変わりましたね。髪……下ろしてるのは、初めてですか?」


「へっ?」


 今度は彼女の番だった。思わず顔を上げて、ぽかんと白洲を見つめ返す。


「その、内巻き……とても似合っています。大人っぽいですね」


「~~~~っ!!」


 さっきまでのテンションとは打って変わって、心愛はみるみる頬を染めていく。指先で毛先をいじりながら、もじもじと身をよじった。


「そ、そんなぁ……きょ、今日はねっ、白洲さんが“隣に並んでても恥ずかしくない彼女”って思ってくれるように……その、ちょっと背伸びしただけでぇ……」


 声がどんどん小さくなっていく。その姿が愛らしくて、白洲は自然と目を細めた。


「でも、実はちょっと迷ったんですよ? ……白洲さんって、ツインテールフェチだから、あんまりかな?って思ってました」


「ツインテールフェチではありません」


 即答だった。


「ふぇ……? で、でも初めて会った時、君のツインテールが美しいって……っ!」


 思いがけず声が裏返る。心愛は身を乗り出して白洲を見上げた。だが――


 白洲は一瞬、真剣な顔で目を伏せると、静かに記憶の引き出しを探り始めた。まるで過去の証言を精査する裁判官のような静謐さで。

 数秒の沈黙のあと、彼は重々しく口を開く。


「……すみません。プールに落ちた心愛さんの姿しか、覚えていません」


「えっ」


 思わず立ち上がりかけた心愛の動きが、フリーズする。


「あっ、いや、その、確かにあれは……派手に落ちましたけどっ!? でも、あのあと、髪がどうとか言ってたじゃないですか!?」


 彼女は必死に両手を振って、なんとか記憶のフォローを試みる。


「えっと、ほら、濡れた髪をかきあげて……『綺麗な髪が』って……た、たしかに言ってたもん……!」


 しかし、白洲の表情は相変わらず思案気味だ。一方で、心愛の脳内では別の嵐が巻き起こっていた。


(あれ? “綺麗な髪が”って言ってたよね? でも、あれって……髪そのもののこと? それとも……あのときの私の、全体の印象?)


(……ってことは……つまりつまり、綺麗だったのは――私っ!?)


 ――完全に、自分の世界に入っていた。


「白洲さんの……女ったらし……」


 唐突に漏れた声は、ふわっとした呟きとは思えないほどの重みを持っていた。


「……は?」


 白洲がきょとんと目をしばたかせる。

 そして次の瞬間、あからさまに困ったように視線を泳がせると、自分のシャツの襟元を指で整えながら言った。


「……すみません。こういう時は……どうすれば、正解なのでしょう?」


 その姿があまりに真面目で、あまりに白洲らしくて、思わず心愛は笑ってしまった。


「もー……それがいちばん、ズルいんだから……」


 そのとき、白洲のスマートフォンが短く震えた。手に取って通知を確認すると、彼は端的に告げる。


「……タクシーが着いたようです。行きましょうか」


「は、はいっ!」


 反射的に返事をして、心愛はぱたぱたと玄関へと向かう。白洲もその後を静かに追いかけるように歩き出した。

 ふたり並んで玄関に立ち、靴を履く。そのとき――ふと目に入った姿見のミラー。


 そこに映っていたのは、大人っぽいワンピースに内巻きヘアの自分と、前髪をセンター分けにして下ろした白洲。


 控えめながらもきちんと“釣り合って”見える、大人っぽいツーショットだった。


(……なにこれ……めちゃくちゃカップル……いや、ベストカップルすぎない!?)


 心の中で、見えないカメラに向かってガッツポーズを決める。


(よし、今日こそ……絶対しくじらないっ!!)


 白洲が開けたドアの向こうには、まぶしい夏の空が広がっていた。

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