心愛、恋にギア入れます
「おはようございますっ」
まだ寝癖の残る髪をポンポン叩きながら、心愛がキッチンに現れた。
白洲はコーヒーをかき混ぜながら、目だけで返す。
「おはようございます。昨夜は……よく眠れましたか?」
「うーん、それが全然……」
ソファにぺたりと座り込んだ心愛が、しょんぼりと顔を伏せる。
「だから、ずっと考えてたんですけど……」
ぱちん、と顔を上げ、突然力強い眼差しを向けてきた。
「――わたし、ちょっと本気出してもいいですか!?」
「……本気、ですか?」
戸惑いを隠せず眉をひそめる白洲に、心愛はぐっと拳を握って言い放つ。
「作戦その1!!」
「……!?」
「私の気持ちが恋なのか、恋じゃないのか――確かめたいと思います!だから……白洲さんと、デートしてくださいっ!!」
「デート……ですか」
まるで未知の単語を聞いたかのように、白洲が目を細めた。
「経験がないので、うまくできる自信がありませんね」
「私だってないですもん!高校も女子校だったし、男子と遊んだのなんて……一回きり!しかもグループです!!」
「……私は、接待でお世話になっているキャバクラ嬢と同伴出勤したことなら、ありますが」
「……こなれてるっ!!!」
カッと目を見開いて、心愛が絶叫した。
「と、とにかく!行きましょう!白洲さんにもチャンスですよ!?デートまでの間、い~~~っぱい私のこと考えてくださいね!!」
圧に押され、白洲は静かに頬をかきながら肩を落とした。
「……行きたい場所はあるのですか」
「へ?あ、えっと……えーっと……」
慌てて視線を泳がせたあと、パッと目を輝かせて言う。
「あ!水族館がいいです!クラゲとか、イルカショーとか!キラキラしてて……きっと楽しいと思います!」
「水族館、ですか」
白洲が呟くように繰り返す。
――近くにある水族館は、海沿いにある人気スポット。
波音が届く開放的なガラスドームの中で、クラゲが幻想的に揺れ、イルカショーの時間には大歓声が響き渡る。
白洲の視線が、ほんの少しだけ遠くを見た。
「……イルカに笑われなければいいのですが」
「なにそれかわいいっっっ!!!!」
興奮気味に飛び上がる心愛の声が、朝のリビングに弾けた。
◆
水曜の昼下がり。会議室を出た白洲は、給湯スペースの隅で紙コップに淹れたコーヒーをひと口啜る。
支社のフロアには、午後の穏やかな雑談とタイピング音が混じり合い、仕事と雑談の狭間の空気が流れていた。
まわりの空気を乱さぬよう、静かに歩を進めたその途中。肩越しに声をかけてきたのは営業チームの若手――木村だった。
「部長、週末ってお休みですよね。……ご予定とか、あるんですか?」
会議明け、昼下がりの雑談タイム。若手社員の問いかけに、白洲は少しだけ考えてから答えた。
「ええ。……デートに行くんです」
「……へぇ!」
少しの間を置いて、彼は妙に嬉しそうな顔をした。
「……お世話になってるキャバクラの嬢ですか?」
「いえ、仕事ではなく、プライベートですよ」
「……!」
あからさまに驚いた顔をされるのは、もはや慣れていた。
「すみません、こう言っては何ですが……白洲さん、めずらしいですね」
「まぁ、色々とありまして」
実に簡素な返答。だが、そうとしか言いようがない。
「彼女さんですか?」
「いえ、違います。話せば長くなるのですが……まあ、友人の紹介といいますか」
「うわー、いいですねぇ……僕もしばらく彼女いないんで、誰か紹介してくれないかなー!」
白洲は何かを思案するように一拍置き、それから思いついたように口を開いた。
「……長谷川部長に頼んでみるのはいかがですか。私に言われたと伝えれば、何とかなるでしょう」
「マジすか!? 聞いてみます!!」
――長谷川部長、あとは頼みましたよ。"お見合いの日"の借り、少しだけ返させていただきます。
席に戻る足取りは変わらず静かで、視線は既に次の業務へと向いている。
だがその裏で、収集していた情報を頭の中で組み直していた。
水族館までのアクセス、昼食の選択肢、混雑を避けた時間帯――。
さて、どのようなプランにすればいいだろうか。
◆
放課後のカフェテラス。
女子大のキャンパス内に併設されたその場所は、午後の日差しに包まれ、学生たちの笑い声と食器の音が穏やかに混じり合っていた。
木々の緑もすっかり濃くなり、風はどこか初夏の匂いを運んでくる。
華やかな服装に身を包んだ女子たちがテーブルを囲み、グラス越しにきらめく光を映しながら、他愛もない話に花を咲かせている。
その一角に、心愛もいた。
(昨日の今日で、言うのも早いかもしれないけど……)
でも、気持ちは誰かに聞いてほしかった。
それに、アドバイスも欲しい。恋って、そういうものでしょ?
心愛はそっと背筋を伸ばし、グラスをテーブルに置いた。
「皆さんに……ご報告があります」
唐突な前置きに、友人たちの手が止まる。
「まさかいきなり付き合ったとか言うなよ?」
「え、愛し合ったとか言うなよ!?」
「結婚した!?ママになるの!?早すぎるってば!!」
「付き合ってない!愛し合ってない!!結婚してない!!!ママにならない!!!!」
赤面して叫ぶ心愛に、周囲のテーブルから笑いが漏れた。
「ち、ちがうよぅ……もう、そういうのじゃなくて……」
言いたいことは決まってる。あとは、言うだけだ。
「……デートに、行きます!!」
カフェテラスのざわめきの中に、心愛の声がぽつりと落ちた。
一瞬、空気が揺れる。
その余韻を切るように、のぞみが何気なく呟く。
「あー……でもさ、まだ同棲して数日だっけ?」
その声が思ったより通って、数人がこちらを振り返った。
――バスケ部出身だからって、なんでこう、空気を読まない声量なんだろう……。
「ていうかそもそも、デートもしてない相手と同棲ってのが、もうおかしいんだけどね?」
そう笑うのはあかね。ギャル風味な見た目に反して、ツッコミは妙に冷静だった。
「確かに、順序バグってるわ。」
最後にぼそっ小さく笑みを浮かべて言うのは、眼鏡のかすみ。
文学部らしく口数は少ないが、言葉のキレは鋭い。
「わっはっは!」
「笑い事じゃないもんっ!!」
真っ赤になって抗議する心愛だったが――
「で、服どうするの?」
「うーん。やっぱ地雷系はパパ活にしか見えないよね〜」
心愛は固まった。
ガビーン、という効果音が本当に聞こえた気がして、口を開いたままフリーズする。
「やっぱそうなの!? そうなのぉ!?!?」
「そりゃあ“ミニワンピ+ネイル盛り+涙袋ドーン”で来られたら、さすがに白洲さんも逃げるでしょ」
「うぅ……」
「綺麗めで攻める? 心愛って胸あるから、清楚系でも清楚にならないのが難点なんだよね……」
「うぅぅ……」
「ちょっとSNSで服装見てみよっか。“巨乳 清楚”で検索っと」
「それ絶対エッチなのしか出てこないやつ!!?」
「うん、ダメだわこれ。別のワードにしよ」
そんなドタバタ劇の中でも、徐々に方向性はまとまっていった。
「このコーデ、落ち着いてて大人っぽいし、でも可愛さも残ってていいんじゃない?」
「あと、話す内容も考えとこ!話題なくなったら心愛、変な方向に突っ走りそうだし!」
「う、うん。たしかに……」
ワイワイ騒ぎながら、服も小物も、話す内容までも、しっかり作戦を立ててくれる友人たち。
そして、ふと。
「あのさ、心愛の話聞いてる感じだと――白洲さんに任せておいたら、うまくいくんじゃない?」
そのひと言に、心愛は一瞬だけ黙り込んだ。
頭の中に浮かんだのは、白洲との他愛もない日々。
ごはんを出したときの「ありがとう」、荷物を持ってくれた手、ただ隣にいる時間の心地よさ。
(……たしかに。なんか、全部ちゃんとしてるんだよね)
妙に納得して、ぽんっと肩の力が抜ける。
「……うん!」
心愛は、満面の笑みで頷いた。
「楽しみだなあ……」
その言葉は、心の底からこぼれた。




