夫婦って、こういうことですか?
時計を確認すると、18時過ぎ。白洲はオフィスのフロアを見渡し、社員それぞれのタスクを確認していく。
「……これで、全員定時退社は可能ですね」
小さく息をついて、席を立つ。
退勤の時間帯、オフィスの半分ほどがすでに静まりかけている。帰り支度をする部下たちに軽く会釈を返し、残っている数人には控えめな声で声をかける。
「無理は禁物ですよ。続きは明日に回しても構いません」
そう言われると、部下たちはどこかホッとしたような表情を見せた。
(あの子は……もう帰っているだろうか)
ふと、心愛の顔が浮かぶ。慣れない家に一人で帰るのは、さぞ心細いだろう。家で「おかえり」と言ってやりたいが、まだ仕事がある。
(……だからこそ、今はきっちりと)
その想いを振り切るように、白洲は早足で駅へと向かった。
◆
駅から歩いて十分あまり。住宅街の角を曲がったとき、白洲は自宅の玄関灯がぽつんと灯っているのを視認した。
(……帰ってきている、のか)
そう思いながら足を止めることなく、門を開け、玄関へと向かう。
玄関の扉を開けると、薄く灯った電気が白洲を迎える。
「ただいま帰りました」
返事はない。
廊下の電気はついていない。だが、リビングの方からは灯りが漏れている。
(……帰ってる?)
白洲は一歩、靴を脱いで中に入る。
リビングの扉を開けた瞬間、空気の重さに気づいた。
床の上、背中を丸めてぺたんと座り込む心愛。
「心愛さん……?」
叫ぶことはせず、なるべく穏やかに声をかける。
心愛はハッと顔を上げ、白洲を見た。そして、ほんの数秒遅れて――ぽろぽろと、涙が溢れ出した。
「白洲さん……心愛は……ダメな奥さんなんですぅぅぅ!!!」
慌てて駆け寄る白洲。周囲に目を走らせる。
火の不始末もない。床にものは散らかっていないし、食器も割れていない。事故や怪我の様子はない。
テーブルの上には、丁寧に盛り付けられた夕食。
(……いったい、何が)
心愛は袖でごしごしと涙を拭いながら、ぐしゃぐしゃのアイラインのままで訴えかける。
「レシピ、“初心者でも簡単に作れるチキンライス”って書いてあったのに……全然、味がしなくて……」
「スープだって、コンソメで野菜スープにしたんですよ? でも、昨日のサラダのレタス入れたのがいけなかったのかなぁ……ベチャってしちゃって……」
「お掃除も頑張ったつもりだったけど……あとで見たらホコリがあって……」
「洗濯も、回そうとしたけど、昔ママに色写りが!って怒られたの思い出して……分け方よく分からなくて混ざりそうで怖くて止めちゃったんです……」
ヒックヒックと泣く心愛を横目に、白洲はテーブルの上に視線を移す。
白洲は再び心愛の元へいき、ゆっくりと話しかけた。
「帰宅が遅れて申し訳ありません。連絡を入れるべきでした」
「大丈夫ですよ。あなたは、よくやってくれています」
「できなかったことより、やろうとした自分を褒めましょう。……ひとつずつ、一緒に覚えていきましょう」
涙目のまま、心愛は顔を上げた。
「……ひとつずつ、ですか?」
「ええ。……急がなくていいんです」
「でも、このままじゃ、ちゃんとした奥さんになれません……」
「大丈夫、時間をかけてゆっくりと。協力していきましょう。それが夫婦というものではないですか?」
「でも白洲さんは何でもできるじゃないですかぁ……」
「……十八歳から一人暮らしですので……まぁ」
(あ、私生まれる前じゃん……)
「では、始めましょう」
白洲はほんのすこしだけ弾むような声で心愛に問いかける。
心愛も白洲のあとについて、二人はキッチンへと向かう。
「チキンライスの味が薄くて、すこし冷めてしまったという事であれば、こういうのはどうでしょう?」
キッチンの棚を開け、レトルトのシチューを取り出し心愛に見せた。
「シチュー・・・ですか?」
「ええ」
コンロに鍋を置き、静かに温め始める。
「あ、オムライスシチュー……私も、お店とかでよく食べます……」
その間に、塩と胡椒を少しだけ足してスープの味を整える。
白洲は穏やかに言いながら、温まったシチューをオムライスの上に優しくかけようとした。
ふいに心愛が 「あ!」と叫んだので、その手がぴたッと止まる。
「あの、“しらす”って綺麗に書けたので、消さないでくださいね?」
「……はい」
心愛はその様子を見て、涙の残る頬をほんの少し緩めた。
ふと横を向いたとき、ガラスの食器棚に映った自分の顔が目に入る。
目元のアイラインがぐしゃぐしゃになって、まるでホラーのようになっていた。
「白洲さん! 私、こんな顔してたんですね!!!」
「……個性的で可愛いですよ?」
「無理がありますから!!!」
「……ちょっとした戦化粧ですね。それに……アライグマっぽくて、愛嬌があります」
「きゅいー!!!」
アライグマの鳴き声は知らないけど、とりあえずそれっぽく吠えてみた。
照れ隠しの“がおー”のポーズを添えて。
◆
夕食の席。
「白洲さんは大学から一人暮らしだったんですか?」
「ええ。当時からなんとなく、この先は一人で生きていくんだろうな、と思っていたので」
その瞳に、どこか寂しげな影を感じた心愛。
話題を変えようと、明るい声で尋ねる。
「ちなみに大学はどちらに?」
「汐京大学です」
「ひょえ!? うちの大学の近くの!? ってことは……すご、汐京ってめっちゃ難しいとこじゃないですか! え、白洲さん、頭いい……!」
「いえいえ、勉強以外にすることがなかっただけですよ」
「でも凄いです。わたしも高校生の時に白洲さんに会ってたらなぁ……家庭教師とか!」
「弊社は副業禁止ですので」
「クールに流された!」
その後も、白洲の大学時代の話に花を咲かせる。
当時はハンバーガー屋でアルバイトをしていたという白洲。心愛は「スマイルください!」と注文して、困った顔をする白洲を想像し、くすくすと笑った。
◆
階段を上りきった先、二階の静かな廊下に、二人は自然と足を止めた。
心愛は一瞬、服の裾を握りしめた。
胸の奥で、何かがぽんっとはじけるような感覚。
(ああ、もう、すきが溢れちゃいそう……)
無意識に、そっと白洲の袖に手を伸ばしかけて――でも、その直前で止める。
(だめだめ! 今ここで抱きついたりしたら、きっとびっくりさせちゃう……!)
しばらく逡巡したのち、顔を赤らめながら、心愛は勇気を振り絞って言った。
「……握手してくださいっ」
差し出した手は小さく、少しだけ震えていた。
白洲は一瞬だけ眉をひそめ、「握手……?」と小さく呟いたが、戸惑いながらも静かにその手を取り、軽く握り返す。
「……では、改めておやすみなさい」
「おやすみなさいっ」
階段を上がったあと、心愛は自分の部屋のドアの前で、深く息を吐いた。
(あっぶなかったぁ……あそこで抱きついてたら絶対死んでた……)
(でも、でも……! ああんもう、好きって気持ちが、止まらないんだよぉ……!)
(だから……せめての、握手。だったのっ)
一方、白洲は静かに自室の扉を閉めながら、目を伏せて小さく呟いた。
「……なぜ、握手……?」
けれどその手のひらには、さっき触れた心愛の体温が、まだかすかに残っていた。
(……あんなに小さな手なのに、あたたかかったな……)
◆
二人、それぞれの部屋。
今日の会話を反芻するうちに、不意に思い出す。
白洲「そういえば今日、駄目な奥さんって言ってたな……?」
心愛「そういえば今日、自分のこと奥さんって言っちゃった……」
白洲「私もえらそうに夫婦がどうとか言ってたな」
心愛「しらすさん、夫婦って言ってたな……」
白洲「私はどうかしているのか……」
心愛「私、ドキドキが止まらないかも……」
――無意識にこぼれた言葉が、心に静かに残っている。
ふたりの距離はまだ遠い。
でも、今日という日が、確かにその“間”を少しだけ近づけていた。




