白洲さん、社内ではこう見えてます
平日、午前九時。
白洲昭三は、いつもと変わらぬ足取りで支社のオフィスに姿を現した。濃紺のスーツ、ネクタイはわずかな緩みもなく、手には黒革のトート。梅雨入り前の蒸し気を感じさせる朝でも、その装いに緩みはない。
「おはようございます、白洲さん」
「おはようございます。――会議資料の修正は?」
「えっ、はいっ。さっき共有フォルダに……!」
課長の慌てた声に、白洲は視線だけで応じ、スムーズに自席へ。電源ボタンを押す手は、無駄がなさすぎて逆に異様なほどだ。PCの立ち上がりと同時に、隣のモニターに表示されたのは、社内フォルダの該当ファイル。
――彼は、感情を表に出すタイプではない。
だが、視線ひとつ、声色ひとつに、“仕事としての信頼”がにじむ。
「白洲さん、この提案書なんですが、六ページ目の――」
「……三月実施なら補助金の交付スケジュールと衝突します。地域振興枠と分けたほうが通りやすいでしょう」
返答に、無駄な言い回しはない。だが淡々とした言葉の裏に、“ちゃんと見てる”という確信が宿っているのだった。
部下たちは無意識のうちに背筋を伸ばし、席に戻っていく。
――やるべきことを、ただ淡々と。それが、白洲という男の信頼の形だった。
◆
「電気よーし、エアコンよーし、ガスよーし……冷蔵庫も、閉まってるっ」
白洲宅、ガランとしたリビングで、月城心愛はチェックリスト片手に小さく腕を突き出していた。
ワンピースの裾がひらひら揺れる。今日は黒レース×ピンクのワンピに、厚底ローファーというTHE・地雷系スタイル。
瞳には、左右で色の違うカラコン――右は紅、左は蒼。
右目の赤は「恋」、左目の青は「理性」――なんて、こっそり自分で意味づけしてるのはヒミツ。
「世を忍ぶ仮の姿。ほんとの私は……地雷系ッ!! ……成人済みであるっ!」
玄関でポーズを決め、スキップ気味に駅へ向かう。駅のホームに立つとすぐスマホを取り出し、メモアプリで「買い物リスト」を確認――ではなく、まずはLIME。
そこにあるのは、ようやく今朝交換できた、たったひとつの新しいトーク欄。
『白洲昭三』
アイコンは、初期設定のままの人型シルエット。既読済のメッセージは『おはようございますっ♡』。返信は、まだない。
「……しょーがない、かぁ」
ぽつりと呟きつつ、入力欄に文字を打ちかける。
何気なく打ち込もうとした文字――『好きな食べ物とかありますか?』
だが、“好き”で指が止まる。
(……あれ、なんでドキドキしてるんだろ)
くすっと笑い、入力をそっと消した。
◆
同じ頃。通勤ラッシュの電車内。
白洲昭三は、吊革を握りながらスマートフォンを開いた。
登録されたばかりの連絡先――『月城心愛』。
今朝、駅までの短いやりとりの中で交換したばかりだ。
LIMEを開くと、そこにはひとつだけ、未読のメッセージがあった。
『おはようございますっ♡』
白洲は画面を見つめ、既読をつける。
(……こういう時、何を返すのが“正解”なんでしょう)
定型文か、スタンプか――
思案するうちに、電車が揺れた。
結局、何も返せないまま、スマートフォンをポケットに戻した。
――通勤中は、原則として“情報収集”の時間である。
白洲は新聞も雑誌も読まない。代わりに車窓の外を眺め、そこに流れる風景から“都市生活の断片”を拾い上げていく。
ふと隣の男が折りたたんだ新聞を開いた。
見開きのすみには、過激な文字と肌色が並ぶ“中年向けエロ特集”。
(……やはり、理解できんな)
彼にとって“通勤”とは、いわば日常とビジネスを繋ぐ観察行為であった。
◆
午前の会議を終え、白洲は書類を片手にフロアの端を歩いていた。
すると廊下の向こうから、こちらに向かってくる男と目が合う。
――長谷川部長。経営企画の古参で、数ヶ月前に“例のお見合い話”を持ち込んできた張本人だ。
「お疲れ様です」
白洲がごく自然に頭を下げると、長谷川は一瞬、ぎこちない笑顔を返した。
「……お、おう。お疲れさん」
彼は視線を壁や床に泳がせ、やがてひとつため息をついてから切り出す。
「なあ……白洲。お前、怒ってないか? あの件で」
白洲は立ち止まり、資料の束を軽く指で整えた。
「……あの件、とは――お見合いの話、ですか」
「うん。いや、ほら、俺もちょっと押し付けがましかったかなって……なあ」
廊下の隅、給湯スペースの前で、沈黙がひとつ落ちた。
白洲は少しだけ考え、ふと視線をずらす。
(――同居、というのは、本来であればかなりのストレス要因だ。生活習慣のズレ、プライベートの消失、感情の衝突。だが……)
「……案外、悪くないですね」
「……えっ?」
長谷川が間の抜けた声を出す。
白洲は、もう一度だけ静かに頷いた。
「体裁としても整いますし、思ったより……負担がありません」
――嘘ではない。
彼女は“騒がしい”が、“煩わしくはない”。
朝の台所にも、夜のリビングにも、妙な緊張感がない。
言葉数は多いのに、どこか“干渉”されている感じがしない。
それは、今まで誰と接しても得られなかった不思議な距離感だった。
一方、長谷川の脳内では、突如として“妄想劇場”が広がっていた。
コピー機の前で書類を仕分けしていた部下1(新人女性)が、勢いよく振り返り、目を輝かせて叫ぶ。
「えっ、白洲さんの奥さん紹介したのって、長谷川部長だったんですか!? やば……レジェンドじゃないですか!」
給湯スペースでお茶を入れていた部下2(ベテラン男性)が、湯呑みを片手にじんわり微笑む。
「いやあ、やっぱり持ってる男は違いますねぇ。まさかあの白洲さんに、あんな年下の美人で性格まで素直な奥さんが……しかもお見合いで!? それを引き合わせた長谷川部長……いやあ、神の采配ってあるんですねぇ」
背後の光が差し込む廊下の奥から、白洲の母(会ったこともない)がハンカチを目元に当てて登場。
「あなたがいなかったら。うちの息子はどうなっていたか……」
隣に控えた白洲の父(同じく未知の存在)が、厳かに頷く。
「……見事だ。」
そして階段をゆっくりと降りてくるのは、お見合いの発起人であり、心愛の祖父でもある月城グループの重役。
その手が、栄誉ある者に授けられるかのように、長谷川の肩にそっと置かれる。
「長谷川君、君に頼んで大正解だった。次の取締役へは君を推薦しよう」
ライトが切り替わり、中央にピンスポットが落ちる。
そこに立つのは、純白のタキシード姿の白洲。
その隣に寄り添うのは、純白のドレスに身を包んだ心愛。
白洲「長谷川さん、一生あなたについていきます」
ここあ「長谷川さんは、私の幸せのエンジェルさんですねっ!」
――そして現実に戻り。
長谷川は遠くを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……結婚式のスピーチ、考えとくか……」
長谷川の未来は……たぶん、明るい。




