欲しい『好き』はそれじゃないから
「マチルダのことは好きだし可愛いと思っているよ? でもそれは妹としてみたいなものだから」
その一言で、わたくしの世界は暗転した。
十五歳で経験したデビュタントから数えて三度目の夜会。
まだまだ緊張が抜けないわたくしは数少ない友人たちの輪から離れて、婚約者であるパトリック様を探していた。彼は彼で男性同士の付き合いがあるとは分かっていても、どうしても心細かったのだ。
そうして辿り着いたバルコニーの物陰で。
男性の友人たちと談笑をしていたパトリック様のそんな言葉を聞いてしまった。
とてもショックで、声を掛けることもなく立ち去ることしか出来なかった。涙が溢れて止まらない。強引に頬を拭えば下ろしたてのシルクのグローブに化粧がべっとりと付いてしまい、それがまた情けなさに拍車をかけた。
――パトリック様とわたくしの婚約は二年前に取り交わされたものだ。
当時十八歳の彼と十三歳のわたくし。
貴族の結婚に年の差は珍しくない。五歳差ならばむしろ差は小さい方だろう。
しかし出会った頃のわたくしは淡い水色の髪以外はパッとせず、同年代と比べても貧相な身体つきで顔立ちも幼かった。逆にパトリック様はすらりと背が高く銅色の髪をした美丈夫であり、既にご実家を継ぐに相応しい堂々たる雰囲気を兼ね備えていた。
そんなわたくしたちが婚約に至ったのは、ひとえに両家の親同士の意向である。
領地が隣同士で古くから交流のあった両家はこの度、新規事業を共同で起こすことを決めた。
その結びつきをより強固なものにするために両家の子どもたちが婚姻することとなったのである。
パトリック様はブルナン子爵家の嫡男で唯一の跡取り息子。
逆にわたくしはラスペード伯爵家の次女。上には姉のキトリーが、下には弟のダニエルがいる。
年齢だけで言えばキトリー姉様の方がパトリック様と釣り合っていたが、既に姉様は別の伯爵家との縁談が進んでいた。そのため、わたくしに白羽の矢が立ったのである。
『初めましてマチルダ嬢。僕のことはパトリックと呼んで欲しいな』
『は、はいっ……あ、あの、わたくしのことはどうぞマチルダと……』
『ありがとう。これからよろしくね、マチルダ』
――正直に言えば、一目惚れだった。
落ち着いた物腰と柔らかな微笑みで完全に恋に落ちたわたくしは、その日のうちに両親にパトリック様との婚約を熱望した。幸い先方も乗り気ということで話はトントン拍子に進んだ。
第一印象から変わらずパトリック様はとても紳士的な方だった。
年下と侮らず常にわたくしを丁寧にエスコートしてくれて、仲を深めるための茶会や外出に関しても一度も反故にすることなく付き合ってくれた。
きっと彼からすれば五歳も年下で引っ込み思案なわたくしの相手など大して楽しくはなかっただろう。
それでも嫌な顔一つせず穏やかな笑顔を向けてくれて。わたくしの上手くない話を興味深そうに聞いてくれて。些細なことで落ち込んだ時には優しく頭を撫でてくれて。
そんなパトリック様のことを好きにならない筈がなかった。
まさに見た目も中身も完璧な婚約者。わたくしはきっと世界で一番幸運な令嬢だろう。
でも、だからこそ、彼が友人に何気なく話した内容はわたくしの胸を深く深く抉った。
自覚があったからだ。陰気で見た目も子供っぽいわたくしはパトリック様に相応しくないと。
わたくしは逃げ込んだ化粧室の一番奥の個室でしばらくメソメソしていた。
だが不意に、このままではいけないのだと悟った。
わたくしはパトリック様を愛している。もちろん男性としてだ。
けれど彼にとってのわたくしは妹のようなもの。そこに恋愛感情はない。そんなのは嫌だ。いつまでも子ども扱いされて女として見て貰えないなんて耐えられない。
わたくしは緩慢な動作で個室から出ると化粧室に備え付けられている大きな鏡を覗き込んだ。
化粧が剥げ落ちたあまりにも酷い自分の顔に思わず笑ってしまう。こんな無様な姿ではパトリック様の前になんて絶対に出られない。
そこでひとまず顔を洗ったわたくしは化粧室の近くに控えていた侍女に頼んで、ある人物を呼んで貰った。するとそれほど待つこともなく化粧室に一人の女性が入ってくる。
「何よマチルダ、こんなところに突然呼び出すだなんて――……その顔はどうしたのっ!?」
「っ……キトリー姉さまぁ……」
そう、わたくしが呼んで貰ったのは七歳上の姉キトリーだった。一年前にパキエ伯爵家に嫁いだ姉様が今日の夜会に一人で出席していることを思い出したのだ。
わたくしは再び緩む涙腺をなんとか引き締めて簡単に事情を説明する。
姉様は面食らいつつも黙って話を聞いてくれた。
「……ということなの。こんな顔じゃパトリック様とは帰れないでしょ? だから姉様と一緒に帰ったことにして欲しくて」
迷惑を承知でそうお願いすれば姉様は呆れたように長い溜め息を吐いた。
「別に構わないけど……マチルダ、貴女これからどうするつもり?」
「どうって?」
「まさか妹扱いされたまま終わるつもり? 悔しくないの? どうせならパトリックを見返してやりなさいよ!」
辛らつな言葉にわたくしは苦笑いを浮かべる。姉様は基本的に物事をハッキリさせたいタイプの人で、気弱なわたくしとは正反対だ。けれども姉妹仲はいい方だと思う。その証拠に言葉自体は厳しいけれど表情からは心配してくれていることが凄く伝わってくる。
「……わたくしもね、流石にこのままじゃ駄目だと思うの。だから姉様に協力してほしい」
「!! そういうことなら任せなさい! で、具体的にどうしたいの?」
「妹みたいな存在じゃなくて……恋愛対象としてパトリック様に見て貰いたいの」
先ほど聞いてしまった衝撃的な言葉を今一度思い起こす。
あの時、パトリック様は確かにわたくしのことを『好き』だと、『可愛い』と言っていた。
けれどわたくしの欲しい『好き』はそれじゃない。
ちゃんと女性として彼に愛されたい。
そのために出来ることならばなんだってしてみせる。
「……いいわ! それならこのお姉様がひと肌でもふた肌でも脱いであげる!」
わたくしの並々ならぬ覚悟が伝わったのか、姉様は白い歯をきらりと見せながら大きく胸を張った。
***
あの衝撃の夜会から数日。
わたくしは姉様の嫁ぎ先であるパキエ伯爵家の屋敷を訪れていた。
「それじゃあ、まずは外見からね!」
姉様はそう宣言すると部屋に数人の女性を招き入れた。どうやらパキエ伯爵家御用達の仕立て屋や宝石商らしい。わたくしが驚いて目を丸くしていると姉様はニヤリと笑う。
「マチルダったら素材はいいのにいつも地味な装いばっかりで実は勿体ないって思ってたのよね! だから今日はわたくしがマチルダに似合う化粧や服装や宝飾品をレクチャーするわ!」
ちなみに財布は旦那様が快く出してくれるから気にしないでね、とウインクまでする姉様。
こうなった姉様は無敵なのでわたくしも素直に従うことにした。というよりも、実はかなりワクワクしている。今まではパトリック様と並んだ際に子供っぽくならないようにという考えの下、大人っぽい雰囲気の化粧や衣装にしてきたつもりだった。
けれどわたくしの顔立ちはどうしたって幼い。これはもう仕方がない。
必然的にあまり大人っぽい雰囲気のものは似合わず、結果として化粧は控えめに、服装は色味や形などよく言えば落ち着いた、悪く言えば地味なものを着ていた。
「まずはヘアメイクからね。ペネロープ、やっておしまい!」
「畏まりました奥様。お嬢様、どうぞすべてお任せくださいませ」
「よ、よろしくお願いします……っ!」
ちなみに傍にはわたくしの専属侍女マドレーヌがメモを片手にペネロープの技を観察している。明日以降の参考にするためだ。わたくしが化粧や衣装を変えることに関してマドレーヌは非常に乗り気だった。どうやら今までわたくしがお願いしていた方向性には大いに不満があったらしい。
社交界でも大輪の薔薇と称される美貌とセンスを持ち合わせた姉様が信頼するだけあって、ペネロープの腕は確かだった。
一時間もしないうちにわたくしの幼くも地味で平凡な顔が、柔らかな雰囲気の可愛らしい化粧に彩られていく。といっても決して濃いわけではない。あくまでもふんわりと、それでいて上品な出来栄えにわたくしは何度も鏡の中を覗き込んだ。
「大変お似合いですよ、お嬢様!」
「やっぱりマチルダは甘めなピンク系よね! 肌も白いし綺麗で化粧映えもするから見てて楽しいわ~!!」
マドレーヌや姉様の賞賛を背に、そのまま髪型も弄られる。ゆるく毛先を巻かれたハーフアップ。少しだけ大人っぽい雰囲気を残しつつも、前髪と後れ毛をしっかり作ることで可愛らしさが足されている。いつもは子供っぽくならないように額を出すことが多いのだが、こちらの方が確実に自分に似合っていると実感出来た。
ヘアメイクが終わると今度は衣装。ちなみに今日のわたくしの衣装は焦げ茶色のシンプルなワンピースドレスだが、姉様からは似合っていないと断言されてしまった。
「で、普段からこんな地味な色ばっかり着てるわけ?」
「……確かに色味は臙脂や紺、深緑なんかが多いけど」
「はぁ!? 貴女まだ十五歳なんだからパステルカラーとか華やかな色を着なさいよ! むしろ地味な色なんて年取ったら嫌でも着ることになるんだからね!?」
「う、うん……それと姉様、わたくし体型に全然自信なくて」
「胸がないなら盛ればいいのよ! ただ下品に見えるのは駄目よ? さり気なくレースやリボンでボリュームアップしているように装えばいいわ!」
「子供っぽくなりすぎないかしら?」
「大丈夫よ! ……それにしてもマチルダの水色の髪は清楚な雰囲気だし本当に綺麗よねぇ……白い総レースのワンピースとか着たらそれだけで男の視線は釘付けだわ」
何十着と着せ替え人形のごとく衣装をとっかえひっかえされながら、わたくしは鏡の前に立ち続けた。
そして気づく。確かにわたくしには可愛らしいタイプの衣装が似合うのだと。レースやリボンも使い方次第では子供っぽい印象よりも可憐な印象の方が際立つ。姉様の見立ては正確で、わたくしは鏡の中の自分の姿に思わず頬を緩めてしまった。
十五歳にしてはやや童顔なのは否めない。けれど今までと比べれば格段に華やかで年相応に見える。
それから宝飾品を見せて貰い、手持ちのアクセサリーや髪飾りのことも考えつついくつか購入した。
「これでしばらくデートや茶会の服には困らない筈よ!」
「ありがとう姉様。わたくしも自分に似合うものが分かった気がするわ」
「あら、本当に大切なのはここからよ?」
「……? どういうこと?」
「ズバリ、マチルダに足りないのは自信よ!!」
言われてどきりとする。確かにわたくしは根本的に自信がない。
性格は内向的であまりお喋りも得意ではなく友人も少ない。それでもパトリック様はそんなわたくしを許容してくれていた。煩い女性よりもわたくしのような静かな女性の方が一緒に居て居心地が良いと。
でもそれはただの甘えだ。
次期ブルナン子爵となるパトリック様をお支えするためにも、わたくしが社交的になることにマイナスはない筈。これでも伯爵家の娘だ。マナーや淑女教育は一通りこなしてきたし家庭教師からは合格点を貰っている。だけど実際に人前に出れば緊張して練習通りに出来ないことの方が多い。特に酷いのはダンスだ。大好きなパトリック様の足を踏まないようにと必死になって楽しめた試しがない。
姉様曰く、それらの原因はすべてわたくしの自信のなさにあるとのこと。
「……姉様、どうしたら姉様のように自信が持てるようになるのでしょうか?」
「簡単よ! 経験に勝るものはないわ! つまり場数! 場数を踏むのよ!!」
その言葉を体現するように。
次の日から姉様はわたくしを頻繁に令嬢たちが集う茶会に連れ出し始めた。
「いいこと、マチルダ。貴女は決して頭も悪くないしマナーも心得てるし空気も読める。その上で必要なのは会話に交ざる勇気と話題についていくための知識……そして常に笑みを絶やさないことよ」
姉様は自らが手本となり、わたくしに色んな方と会話する様子を間近で見せてくれた。当然のようにその中には公爵家や侯爵家のご婦人、ご令嬢も含まれていて思わず委縮してしまう。しかし姉様は全く動じずに彼女たちとの会話を楽しみながらも、戸惑うわたくしを上手く誘導して会話に交ざれるよう取り計らってくれた。改めて姉様の凄さを肌で感じ尊敬の念を深める。
しかし正直なところ最初の内は極度に緊張のし通しで。帰宅後には倒れこんだり熱を出したり吐いてしまうことすらあった。急激な変化に身体の方が先に悲鳴を上げたのである。
そしてちょうどその頃だっただろうか――体調を崩したわたくしをパトリック様が見舞ってくれたのは。
「倒れたと聞いて物凄く心配したんだ。あまり無理をしては駄目だよ?」
ベッドの上で静養するわたくしの頬を撫でながら苦笑いを浮かべるパトリック様。
その瞳は明らかに憂いを帯びていて申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
あの夜会以降もパトリック様との交流は変化なく続けており、彼の態度も婚約者として完璧なままで。胸の中でどう思っていようが、パトリック様はわたくしのことを蔑ろにするつもりはないということが分かり、それが嬉しい反面、どこか悲しくもあった。
「そういえば最近は服や髪形も前とはだいぶ違うよね?」
「……ええ、実は姉様に色々と教わっていまして。もしかして似合ってませんか?」
「いや、そんなことないよ。似合ってる。でも僕は前の落ち着いた感じも悪くないと思ってたから……」
その言葉は正直かなり意外だった。外見に関しては家族も友人も全員が口を揃えて今のほうが良いと太鼓判を押してくれている。にもかかわらず一番気に入って欲しい相手からの反応が今一つで少しばかり気落ちしてしまう。そんなわたくしの様子にパトリック様は慌ててこちらの手を握ってきた。
「ごっごめん! その、マチルダは何を着ても似合うって言いたかったんだ。どんな格好でもマチルダはとても可愛いよ。僕の自慢の婚約者だ」
落ち込む子どもに言い聞かせるようなその気遣いに、わたくしは苦しい気持ちを押し殺しながら小さく微笑み返す。
「……ありがとうございます。わたくしも自分に似合うものがようやく分かってきたところです。それに社交界ではファッションの話題は重要なのでもっと勉強しないと」
「そうなんだ。もしかして最近忙しい理由もそれが原因とか? 茶会にも頻繁に顔を出してるって噂も本当みたいだし……今までは必要最低限しか出ていなかっただろう? どうして急に積極的になったの?」
わたくしは返事に困ってしまった。本当のことを話せば、なんとなくパトリック様は「そんなことはしなくていい」「今のままのマチルダでいいんだ」と仰るような気がした。
けれどそれはわたくしの望むところではない。もう妹扱いは嫌なのだ。その為にはパトリック様に意識して貰えるような素敵な女性にならなければ。
「ご心配をおかけしてしまい申し訳ありません。ですが、わたくしは大丈夫です。最近積極的に動いているのは正式にデビュタントした以上、今後のためにも社交も頑張る必要があると考えたからです。ですので少し見守っていてくださいませんか……?」
わたくしの懇願にパトリック様はあまりいい顔はされなかったが、最後には体調管理だけは徹底するようにと念押しをした上で認めてくれた。わたくしはその言葉に力強く頷いた。
体調が戻ると同時にわたくしは茶会への積極的な参加を再開した。大抵の場合は姉様が付き添ってくれていたが、伯爵夫人である姉様は基本的にとても忙しい。当然わたくしにばかり構ってもいられない。
勇気を振り絞り一人で参加した際には、やはり何かしら失敗し。時には冷ややかな視線を投げられることもあった。本当は怖くて逃げたくて仕方がない。それでも表面的には笑みを取り繕い会話に交ざる努力を惜しまなかった。パトリック様に相応しい女性にどうしてもなりたかったから。
そんなことを繰り返すうちに段々と場の気配や会話の糸口を掴むタイミングが分かるようになってきた。相手の趣味嗜好が分かれば必然的に会話も弾み、その会話がまた別の人と話すきっかけを作ってくれる。
「マチルダ様とお話しするのはとても楽しいです」
とある令嬢から笑顔でそう言われ、不覚にも胸が熱くなって泣きそうになってしまった。
その頃になるとわたくしは他者と会話をすることが苦痛ではなくなっていた。むしろ初対面の方とも臆することなく話すことが出来るようになり、ますます社交が楽しくなった。
「良い笑顔よマチルダ。どう? 少しは自信ついたんじゃない?」
姉様の言葉に今はしっかりと頷くことが出来る。その事実がわたくしの確かな自信となる。
そして自信は表情や姿勢、態度にも表れることをわたくしはようやく実感した。今までは気後れして俯きがちだったものが、自然と背筋が伸びて顔が前を向き、笑みを浮かべれば相手も好意的に返してくれる。もう他人の視線で無闇に怯えるようなこともなくなった。
「……姉様、本当にありがとう。今ならパトリック様の隣に居ても恥ずかしくないって心から思えるわ」
わたくしが晴れやかな気持ちでそう伝えれば、
「可愛いマチルダ。引っ込み思案の貴女が正直ここまで頑張るとは思ってなかったわ……貴女は私の自慢の妹よ」
姉様もまた華々しい笑みを浮かべながら優しく抱きしめてくれた。
***
パトリック様の本音を知ってしまった日から数ヶ月。
最近仲良くなった令嬢から若者が中心となって楽しむ夜会に招待されたわたくしは、パトリック様と会場でダンスを踊っていた。昔は人前で踊ることが苦痛でダンスを楽しむ余裕なんてこれっぽっちもなかった。けれど今は音楽に身を委ねて軽やかに踊ることが出来ている。
「……本当に見違えるように上手になったね、マチルダ」
感心するように微笑みながら褒めてくれるパトリック様に思わず頬が嬉しさで熱くなる。けれど子どもみたいに取り乱したりはせず、わたくしは目を細めて柔らかく微笑んだ。
「パトリック様のリードのおかげです。昔のわたくしは足を踏まないように必死でダンスを楽しむ余裕なんて全くありませんでしたけど、最近は会話をしながら踊ることも出来るようになりました」
「そうみたいだね。……もしかして、僕以外の男とも踊ったりしたの?」
「え? は、はい。前の夜会で誘われたので、断るのは失礼かと思って……」
「っ……感心しないな。君は僕の婚約者なんだから、そういう時はハッキリ断ればいいんだ」
パトリック様はわたくしが初めて見る冷ややかな顔でそう仰った。
しかしわたくしが息を呑むほど驚いているのに気づくと、すぐにいつもの穏やかな表情に戻る。
「もし誘われても僕以外とは踊っては駄目だよ? 分かった?」
こちらの瞳を覗き込みながら囁く声には確かな嫉妬が滲んでいて。わたくしは胸を大きくときめかせた。嫉妬をするということは、わたくしを女性として見てくれているということに他ならない。
この数ヶ月の努力は決して無駄ではなかったのだと確信した瞬間、心臓が早鐘を打ち始める。
――今なら。今ならきっと。そう期待する気持ちが止められない。
ダンスが終わり、わたくしたちは飲み物を手にバルコニーへと出た。
冷たい果実水で喉を湿らせたわたくしは、そこで意を決してパトリック様に切り出した。
「パトリック様はわたくしのことをどう思っていますか?」
「うん? どうしたの突然……」
「わたくしは、パトリック様のことが好きです。大好きです」
彼は僅かに目を見開いた。それはそうだろう。今までのわたくしだったら、このような場所で愛の告白など絶対にしなかった。でも、わたくしたちは婚約者同士だ。そして今は周囲に人もおらず二人きり。誰にも咎められるようなことはしていない。
「パトリック様は? わたくしのこと、好きですか……?」
「……勿論、僕もマチルダのことが好きだよ」
「それは、わたくしにキスをしたいとか、そういう気持ちの好き、ですか……っ?」
緊張から声が少し掠れてしまった。同時に心臓が痛いくらいに鼓動を速める。見ればパトリック様はどこか困ったような顔をしていた。やはり迷惑だっただろうかと急に不安に苛まれる。でも自分から話を振った以上は逃げるわけにもいかず、わたくしはジッと彼からの返答を待った。そして――
「マチルダ」
パトリック様はわたくしの髪のひと房を柔らかく弄びながら口を開いた。
「あまり僕を困らせないで欲しいな。君はまだ幼いんだから、そういうことはもっと大人になってから考えればいいんだよ」
労わるような声音に、わたくしは呼吸も忘れて瞠目した。
すると彼はどこか焦ったように顔色を変えると慌てて言葉を続ける。
「マチルダのことが好きなのは本当なんだよ? でも僕にとって君はとても大事な……そう! 妹のような大切な存在なんだ!」
――妹。まただ。また言われてしまった。
「君が思っているよりも僕たちの年齢差は大きいんだ……僕の気持ち、分かってくれるよね?」
ええ、分かったわ。よく分かった。
パトリック様にとってわたくしは妹みたいなもので。決して恋愛対象にはならないってことが。
おそらく彼の中でわたくしは出会った頃の小さな子どものままなのだろう。それならいくら努力を重ねたところで無意味だ。打つ手はない。永遠に、わたくしが欲しい『好き』は貰えない。
人間は悲しみが過ぎると涙も出てこないものらしい。わたくしは眉を下げて微笑むパトリック様に一度だけ頷き返した。彼が望む、聞き分けの良い子どものように。それが精一杯だった。
そこからのことは正直よく覚えていない。気づけば自室に居た。
着替えも済ませていることから何事もなくやり過ごしたようだ。この数ヶ月、表情を取り繕ったり動揺していても普通に振る舞うことを覚えたのが役に立ったらしい。こんなことで役に立っても虚しいだけだけれど。
わたくしはベッドの上で静かに目を閉じた。初恋が砕け散ったという事実がじわじわと身体も心も蝕んでいく。けれどあれだけハッキリと言われてしまったのならば仕方がない。
眠りに就く直前、わたくしは明日にでもお父様とお母様にパトリック様との婚約解消の相談をすることに決めた。
***
共同事業が絡む以上、婚約解消については我が儘を言うなと突っぱねられてしまうことも覚悟していた。しかし意外にも話を聞いてくれたお父様の返事は「分かった」だった。
「別に婚姻を結ばずともブルナン子爵家との事業は揺るがないし、お前とパトリックとの見合いも当人同士が乗り気ならという話で進めたものだ。別に破談になっても大した痛手はないよ」
すぐに嘘だと気づいた。影響がない筈がない。けれどお父様は気にするなと言わんばかりに目を細めて笑いかけてくる。
激しく動揺するわたくしに今度はお母様が切なげな笑みを浮かべながら口を開いた。
「……最近、貴女が社交に積極的になったり身だしなみやマナーを頑張っていたこと、お母様もお父様も気づいていたのよ。それが誰を想ってのことだったかも。頑張った貴女がもう無理だと言うのであれば、私たちはその決断を尊重するわ」
両親の優しい言葉に、わたくしは唇を噛みしめてボロボロとみっともなく泣いた。
横から弟のダニエルが手を握ってくれて、それがまた温かくて。止めたくても涙が次々と溢れ出してしまう。そんなわたくしを両親はダニエルごと包み込むように抱きしめてくれた。
その日のうちに我がラスペード伯爵家からブルナン子爵家に婚約解消の申し入れが行なわれ。数日後、わたくしとお父様はブルナン子爵家の屋敷へと足を運んでいた。
どこか気まずそうな使用人たちに案内されて応接間に通されたわたくしたちを待っていたのは、ブルナン子爵とパトリック様だった。
パトリック様はわたくしが部屋に入るやいなや、思わずといった様子で駆け寄ってきた。
「……マチルダ! いったいどういうことなんだ!? いきなり婚約解消だなんて――」
「パトリック!!」
子爵様がパトリック様を咎める。それで我に返ったのか彼はわたくしから少し距離を取った。
それから席を勧められ、どこか重たい雰囲気の中で話し合いが始まる。口火を切ったのはブルナン子爵だった。
「ラスペード伯爵、マチルダ嬢。この度の婚約解消の申し出についてまずは理由をお聞きしても?」
「……申し訳ありません、子爵様。すべてはわたくしの我が儘によるものです」
「我が儘……もしや、パトリックのほかに好意を寄せる男性でも?」
その言葉に最も強く反応したのはパトリック様だった。彼は青い顔をしながらわたくしを見つめている。対してわたくしは冷静に首を横に振った。
「いいえ。ですが、わたくしは愛のない結婚をしたくはないのです」
「は? ……どういう意味だ? 僕はマチルダのことを心から愛しているのに……!」
思わずといった様子で口を挟んできたパトリック様にわたくしは薄く微笑む。
「確かに、パトリック様はわたくしを好きだと仰ってくださいました。しかしそれはあくまでも妹として、ですよね?」
「っ! それは……!」
たった数日前の話だ。忘れている筈もない。
子爵様が険しい顔で言葉に詰まったパトリック様を一瞥する中、わたくしは話を続けた。
「確かにわたくしの容姿は同年代と比べてやや幼いですし、女として見られないというのも仕方がないことかと思います。ですが、わたくしは妹では嫌なのです。きちんと女性としてわたくしを愛してくださる方と添い遂げたい……貴族の娘としてそれを望むことは恥知らずと分かっております。ですが、どうしても諦めきれないのです……」
わたくしは立ち上がると深々と頭を下げた。
「どうか、婚約を解消していただけませんか」
「――私からもお願いしたい。勿論、この件で共同事業を取り止めるようなことは決してしないと約束しよう。そちらが望むなら利益分配に関して見直す用意もある」
お父様の言葉に向かい側に座る二人が驚いたのが伝わってきた。婚約解消にしては我が家が支払う対価が大きすぎるからだろう。それでもお父様はわたくしのために交渉のカードを切ってくださった。そのことに感謝するより他ない。
それから少しの間の後、子爵様は僅かに悲しそうな声で婚約解消に同意すると仰ってくださった。
パトリック様はそれに対して「待ってください!」と声を上げたけれど、当主同士が合意したことを覆せるような立場にはなく。
「そんな……マチルダ、考え直してくれ! 僕は君のことが本当に好きなんだよ!!」
「……ありがとうございます、パトリック様。でも、もう良いんです」
だって、わたくしの欲しい『好き』はそれじゃないから。
こうしてわたくしの初恋は完全に終わりを迎え、二年間共に過ごした婚約者に別れを告げた。
***
――ああ、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
僕はあの日から何度も何度も自問し続けている。
視線の先には僕ではない男と楽しそうに微笑み合いながら親密そうな距離でダンスを踊る美しい少女の姿がある。マチルダ。僕の婚約者だった五つ年下の女の子。妹のように可愛がっていた、大切な子だった。
彼女の容姿は同年代に比べてもかなり幼かった。特に婚約した頃の彼女は十三歳。十八歳の僕からしてみれば完全に恋愛対象外で、それでも家のために婚約することに不満なんてなかった。
幸い、彼女はとても可愛らしくて性格も良かった。少し引っ込み思案なところも可愛くて、僕のことが大好きだということが言葉や視線の端々から伝わってくるのが嬉しかった。
背伸びをするように僕に合わせて服や化粧を大人っぽくするのも微笑ましかった。あまり似合っていなくても、それが僕のためだと思えば思うほど愛おしかった。
そうやって二年も共に過ごせば情も愛着も湧く。そう、僕たちは上手くいっていた。
唯一、不満に思っていたことは友人たちから揶揄われることくらいだった。
『なぁパトリック、もう婚約者の子とキスしたのか?』
『おいおい、あんな小さな子に欲情したら流石に犯罪だろ?』
『そうだよなぁ。確かに顔は可愛いし将来は絶対美人になるだろうけど……』
『次期子爵が幼女趣味なんて笑えねぇよ、なぁ?』
遠慮なく放たれるそんな言葉には正直、辟易していた。単なるやっかみだということは分かり切っていた。マチルダは美少女だ。今はまだ幼さが目立つが、将来は彼女の姉である社交界の薔薇キトリー伯爵夫人のように人目を惹きつける素晴らしい女性になることだろう。
マチルダは現在十五歳。だから揶揄われるのもどうせ長くて一、二年のことだ。
そこで僕は内心では羨ましがっているであろう彼らに話を合わせながら笑って返す。
『マチルダのことは好きだし可愛いと思っているよ? でもそれは妹としてみたいなものだから』
それは半分本心であり、もう半分は誤魔化しだった。
どんどん可憐に成長していく可愛いマチルダを女性としてまったく見ていないなんていうのは当然、嘘だ。
それでも大切にしたいのは本当で、妹のように大事に思っていたのも事実。
だから彼女から婚約解消を申し入れられた時、咄嗟に反論が出来なかった。
そして今、僕はそれを心の底から後悔している。
これから先の人生、僕を心から愛してくれていた彼女が隣にいないなんて考えられない。それなのに彼女との縁は切れてしまった。事業に影響が出なかったからか、父からは特に叱責はされなかった。だが、同時にどこか失望されたのが分かった。当然だ。マチルダのような理想的な伴侶を逃すなど愚かの極みでしかない。
――やり直したい。
もう一度、彼女の『好き』を独占したい。
今度は間違えたりしないから。君が欲しい『好き』を、『愛してる』を返すから。
君が望むなら愛情を込めたキスをしよう。それ以上のことだって本当はしたかった。ただ周囲からの視線と年上としての見栄が邪魔をしただけだ。僕は君よりも大人だったから。君が大人になるまで待っていただけなんだよ。――ああ、どうしてわかってくれないんだ!
狂おしいほどの激情が胸を占める中、曲が終わりを告げる。
マチルダは少し疲れたのか次の誘いは断って飲み物を取りにダンスの輪から抜け出した。
これは千載一遇の機会かもしれないと、僕は反射的に彼女を追うべく足を動かそうとする。
しかし、その直前、
「ブルナン子爵令息」
背後から知った声に名を呼ばれてしまい思わず足を止める。振り返れば、そこには咲き誇る大輪の薔薇のような女性が立っていた。
彼女はスッと瞳を細めると口もとだけで笑みを作る。
「一度しか忠告しないわ。今更あの子に近づくような真似は止めてちょうだいね?」
「っ!! ……パキエ伯爵夫人、僕は彼女のことを、本当に心から――」
「ええ、ええ! 妹のように、大切に想っているのよね? ありがとう。でもね、あの子が欲しかったのはそれじゃないのよ」
そう言った彼女は目線を僕から外して何かを眩しそうに見つめる。
そこには同じ年頃の男女に囲まれて楽しそうにしているマチルダが居る。デビュタントの頃のように僕の後ろに隠れてなかなか会話に入れなかった彼女の姿はもう、どこにもない。
不意にその輪にいた、まだ少年と言って差し支えない――だけどマチルダとは似合いの年頃の――男が彼女の華奢な手を取って何かを必死で語り掛けている。あからさまな恋のアプローチ。その必死な姿を滑稽と笑うことは出来る。だけど彼女に愛を乞う資格すら失った僕には彼の行動はあまりにも羨ましくて、妬ましくて。
彼の熱意にほだされるように、やがてマチルダは僅かに頬を染めながら柔らかく目を細めて微笑む。
それだけで可憐な花が咲いたようだった。想像していた通り、彼女はこれからきっと、もっと咲き誇るのだろう。僕のことなんて忘れて。
「……くれぐれも邪魔しないでね。貴方はもういい大人なのだから」
将来義姉になる筈だった女性の言葉が心臓を抉る。
僕はその場からもう一歩も動けず。
強い喪失と虚無を抱きながら、愛する女性を遠くから眺め続けた。
【了】
些細な言動のせいで取り返しのつかないことになり後悔する男が書きたくて書きました。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。