何もなければよかったのに
お嬢様を東屋に置き去りにして、侯爵様は私と二人きり、庭園を歩いていく。
私はお嬢様の侍女である以前に、庭師の娘だ。現物に触れた数は限られているけど、給金をせっせと珍しい種や植物図鑑につぎ込んだ私は、たいていの植物は見て種類が分かる。
だけどここは国一番の植物展示庭園、時々は首をかしげてしまう。温室に入ってからは、なおさら。外国の気候を再現したここには、本当に観たことも聞いたこともない珍種があって。
「むむ……なんだこれ。トゲトゲしている……」
これまた巨大な植物の前で、私は唸った。
私の身長よりもずっと大きく細長い形だけど、木……ではない。全身緑色で、肉厚で柔らかそうだ。しかも全身に、針のような鋭いトゲまで生えている。もう本当に、この王国では見たことが無いものだった。
何かこの植物について、解説している札でもないかときょろきょろしていると、
「これは、サボテンだな」
そう、侯爵が声をかけてきた。解説など何も見ず、私だけを穏やかに見つめている。
「その中でも、こういうまっすぐに大きく育つものを柱サボテンというのだそうだ。ちなみにあの、『月光華』も、このサボテンの亜種なんだって」
「ええっ、そうなんですか!?」
私は本気で驚いた。だって本当に知らなかったんだもの! 月光華はとても珍しい花だが、その同種というものも見たことがない。私が驚いたことがとても嬉しかったのか、侯爵は満足そうにうなずいた。
「ああ、サボテンは航海術革命のさい、海を隔てた遠い大陸からこの国に渡ってきた。しかしあの月光華だけが王国の気候に合って、ぎりぎり根付いたのだそうだ」
「遠い大陸……あの月光華は、この国の花ではなかったのですね」
「うん。それに大陸本土の気候ならば、花は年に一度だけではなく、何度も咲くらしいぞ」
「ええっ!? まさか! 本当に?」
「本当。珍しがられることもなく、普通の家の庭先に自生しているのだと……油で揚げて食べても美味いらしい」
「うっそーぉ!」
私は大きな声を上げた。直後、侯爵様相手にとんでもない口の利き方をしてしまったと反省し、俯く。侯爵は何も気にしていないようで、首を傾げたけど。
「あ、あの……どうして侯爵様がそんなに詳しく――あっ、出征でその国を訪れたのですか?」
いいや、と彼は首を振った。
「勉強をした。世界の珍しい花々や、その育て方について書かれた本をたくさん読んだんだ。あの夜……初めて『仮面の貴婦人』と出会ったとき。彼女はとても、植物が好きだと言っていたから」
えっ――?
私の心臓が大きく高鳴った。
「月光華が、この国ではそれほど貴重なものとは知らず、手折ろうとして叱られた。貴族の気まぐれで摘んでいいものではないのだと。俺は、無骨な男だから……今までそんなこと、考えたことも無かった」
ああ――そうだった。私……。公爵邸の仮面夜会で、初めてラファイエット様と出会ったあの日。まだ彼の素顔も名前も知らなくて、お嬢様の婚約者だなんて思いもよらなかったとき。
素の熱量で、植物愛を語ってしまったのだ。それは令嬢としてはもちろん、伯爵家に努める侍女としても不自然な、私の個性だった。
こ、これは――もしかすると、まずいのでは……。
「……だから、この植物園にベルメールを連れてきたのだが、なぜだろうか。全然喜んでくれなかった」
ああやっぱり、きっぱりとまずい!
侯爵はなぜか微笑んでいる。ちっとも残念そうには見えないが、なんにせよ私がするべきことはお嬢様のフォローだ。二人の恋が成るように、全力を尽くさねばならない。
「た、ただ単に今日は、疲れてしまったのだと思います。そう、朝からお嬢様は体調が悪くて」
「そうだったのか」
「ええ、ええ。でも侯爵様とのお出かけが楽しみで、無理を押して起きだしてこられました。ひとえにお嬢様のいちずな想いあってこそ……お叱りは、主の体調管理を怠った侍女の私にお与えください」
深々と頭を下げて言う。
こう言っておけば、ラファイエット様の気持ちがお嬢様から離れないだろうと思った。私は罰だけを期待して、顔を上げる。
彼は笑っていた。透き通るような青い瞳を、優しく細め、私を見つめて。
「大丈夫。リナが喜んでくれたから」
引き続き、私たちは園内を歩いて回る。
珍しいものもそうでないものもあったけど、私たちは毎回足を止め、語り合った。
ラファイエット侯爵は私よりずっと背が高いので、そのたびいちいち腰をかがめる。普段は遠く上空にある彼の顔が、すぐ横にくる。
「この花はなぜ青いのだろう? 図鑑には赤色で載っていたはずだが」
「きっと、土の質が違うんです。この種の花は土の成分によって花びらの色が変わるんですよ」
ほうほう、と頷く侯爵。瞬きをするたび、ゆるくカールした睫毛が宙を掻く。
……横に並んで、改めて思う。
何という美しいひとなのかと。
……初めて彼と語り合ったとき、私は彼の素顔を知らなかった。巨大な体に鉄兜を被った、ただの怪しい男だった。顔だけでなく、名前もわからなかった。その名誉や、地位や財産がどれほどのものかなんて、
考えもしなかった。
……それでも……私は彼に惹かれた。
「やっぱり国内の植物はリナのほうが良く知っているな。リナは、勉強家だ」
朴訥とした言葉で、素直な気持ちをまっすぐに伝えてくれる。
そんな彼が好きだった。
鉄兜の下が、醜ければよかったのに。
彼と並んで歩きながら、私はぼんやりとそう思った。
侯爵の顔が美しくなければ、お嬢様は彼を好きにはならなかっただろう。
あるいは彼の地位がもっと低い、雇われ庭師の若衆でもよかった。
彼が王国の英雄でなければ、フェンデル伯爵は娘との縁談を組まなかっただろう。
彼が何も持たざるものだったら、良かったのに。
もしそうだったら、私は……。私だったら……。