4日目
サァ……
雨が優しく屋根を叩く音で意識が覚醒する。まだ寝足りないのか瞼が重く意識に霞みが掛かっている。その気持ちよさに身をゆだねていれば、意識は再び堕ちていくことだろう。
怠惰的な衝動に身を任せようとしていると、突如眉間に突き刺さるような鋭い音が部屋中に響き渡る。
ビクリと体を硬直させた自分は部屋の片隅を見る。そこには先日買ってきた目覚まし時計が置かれていた。薄い円柱型の本体の上部にベルが2つ付いたレトロチックな時計である。店頭で見つけた時はお洒落で良いじゃないかなどと思っていたが、その爆音で起こされた今となっては、その存在がただただ憎たらしい。
這う這うの体で布団から抜け出し目覚ましのスイッチを切る。まだ頭は重いが目はすっかり覚めてしまった。怪しい足取りで洗面台までたどり着き顔を洗うが、ガラスに映る顔は何だかむくんで見える。
……なんだか体が熱く、少し熱っぽい気がする。先日、湖に飛び込んだのが祟ったのだろうか。胸の奥の火照りが不快でしょうがない。
その熱に我慢できず傘もささずに外に出る。
空気は相変わらず湿気をはらみ不快感を与えるが、それでも肌をさす雨粒が冷たくて気持ちいい。そのまま雨に身を任せ続ける。しばらくそうしていると体が冷えてきたのか体内の熱が引いていくのを感じる。
さすがにこれ以上は逆に体調が悪化する、そう考え屋内へ引き返そうとした自分の耳が話し声を拾う。それは隣家の辰巳家からであった。
この時の自分が何を考えていたのかはわからない。ただ直観的に何かを感じ取って会話の内容に聞き耳を立てる。
「まだ見つかりませんか」
「ええ、外縁部なども探しちゃいるのですが……」
話しているのは女性と男性。女性は京子さんだろう、男性は……この声には聞き覚えがある、駐在警官の1人だったはずだ。何かを探しているようだが……
「野犬のこともありますし、私心配で……」
「安心なさってください、娘さんは必ず見つけます」
……まさか、斎のやつが行方不明になった?
嫌な考えが頭をよぎる。野犬の死骸、昨夜の遠吠え……これだけの要素が揃っていれば否が応でも繋げて考えてしまう。
そんなことを考えていると話が終わったのか警官の足音がこちらに近づいてくる。盗み聞きをした後ろめたさからか、自分は逃げるようにその場を後にした。
屋内に戻った自分は遺品整理をするわけでもなく畳に寝そべり天井をボーと見つめていた。とても作業に集中できる気分ではなかった。自分の頭の中では先ほどの会話が、壊れたカセットテープのように繰り返し再生されていた。確かに斎とは仲が良かったとはいえないが、それでも身近な人間の失踪という事実は思った以上に自分を動揺させたらしい。
カチッ、カチッ、時計の秒針が時間を刻む音が室内に響く。やはりまだ体調が悪いのか頭がぼやけてくる。思考がまとまらず、記憶は回帰していく。
……
……幼いころ、まだ小学生くらいの時は斎とは仲が良く毎日のように遊んでいた。あまり活発ではなかった自分を斎がいつも引っ張り回していた。それでも決して不快なものではなく……まあ上手くかみ合っていたのだろう。ああ……でも……
……
揺れている、揺れている。波に揺られるように、とぷんとぷんと。音はなく、辺りは優しい静寂に満たされていた。
『……て』
波紋が静寂を侵しす。じわりと自分の中に染みわたっていき心地よい。
『…きて』
なんといっているのであろうか……その心地よい声をもっと聞かせて欲しい。
溶けていた自分を搔き集め耳を澄ます。
『起きて』
「っ!?」
瞬間、まるで無理矢理引き上げられたかのように意識が覚醒する。
落下にもにたそれは背筋を冷やし、混乱を引き起こしていた。周囲を確認する、そこはここ数日ですかり見慣れた居間であった。……どうやら、いつのまにかに寝てしまっていたらしい。
緊張して汗でもかいたのか、なんだかとても咽が渇いてしまった。水を飲みに行こうと障子を開ける。
「……」
―――そこは、一面が赤く染まった世界であった。
空も、大地も、遠くの山々も全てが赤く染まっている。雨はいつの間にかにやみ、雲の消え去った空には赤い月が浮かぶ。月は痛々しいほど美しく、見ているとなんだか無性に哀しくなってくる。
あまりの事体に言葉を失う。神秘的な光景、しかしそれは自分に不安を感じさせる。何か……このままでは取り返しがつかないことが起こってしまいそうな、そんな不安を。
走り出す。誰でもいい、とにかく一人でいたくなかった。
「誰かいませんか!」
隣の辰巳家の呼び鈴を鳴らし、ドアを何度も叩く。迷惑だとかそんなことを考えている余裕はなかった。……何の反応もない。他の家も同じように回ってみたが、どこも同じであった。おかしい、これだけ騒いで誰一人出てこないというのは異常だ。こうなったらと覚悟を決めて家の窓ガラスを破壊し、そこから侵入して家屋を捜索する。しかし相変わらず人ひとり見つけることが出来ない。
「……一体どうなっているんだ」
街中を駆ける、まるで何かから逃げるかのように。街はもはや自分以外の人間が死に絶えてしまったかのような静けさに包まれていた。そんな頭に浮かんだ考えを振り払うかのように走り続けた。
―――限界はそう遠くはなかった。
足をもつれさせて地面を無様に転げまわる。そのまま大の字になって変わり果てた空を仰いだ。
早鐘を打っていた心臓が落ち着いてくると改めて考える。……どうしてこうなってしまったのだろうか、少し前までは街はこんなではなかったはずだ。しかしいくら考えても答えなど出る筈もなかった。
手を月に向かって伸ばす―――指の隙間からは赤い光が漏れている。……不思議だ。自分はこの世界の在り方に不気味さを感じつつも、どこか惹かれていた。理由はわからない、ただまるで時間が止まってしまったかのようなこの世界が何故だかとても美しく感じるのだ。
―――そんな想いに浸っていた自分を現実に引き戻したのは、肌を刺すかのような獣の唸り声であった。
それは建物の影と同化してこちらを睨みつけていた。……否、それは別に睨んでいるつもりなどないだろう。まるで機械のような無機質な目―――しかしこちらを委縮させるほどの重圧でこちらを見つめている。
それが影の中から這い出てくる。全長は優に5メートルは越えているだろうか。黒い体毛が全身を覆い、人間など容易に引き千切れそうなほど鋭利な牙が口の隙間から見え隠れしている。
こんな生物が存在するのか……!?
姿形だけ見れば狼に近いのかもしれないが、これだけの巨体、これだけの存在感が目の前の存在を自分と同じ生物と考えるのを拒絶させる。むしろ太古に存在していた魔物の類といわれた方がまだ納得できただろう。
逃げなければ殺される。しかし濃厚に垂れ流される死の気配が体を動かすことを許さない。化け物はこちらが動けないのがわかっているのか一歩、また一歩と距離を詰めてくる。しかし恐怖を感じて動かない肉体とは裏腹に精神は異様なほどに冷めきって状況の把握につとめていた。野犬の死骸も親父もこいつがやったのであろう……恐らくは斎も。そして―――自分もここで死ぬのであろう。
永遠に感じるような数秒が過ぎ去り、ついにその時がやってくる。化け物が顎を開く。そこは一寸の光も通さぬほどの闇となっており見通すことはかなわない。しばらく見つめているとまるで自分がその闇の中に落ちているかのような錯覚に陥る―――否、闇が落ちてきているのだ! その巨大な顎で獲物を食い千切らんとするために。
そうして―――断頭台は振り下ろされる。無造作に、無感動に。最後に見た光景……それは、迫りくる闇であった。
「っ!?」
目を覚ます。咄嗟に周囲を見渡すが、そこは列車の座席であった。
確か……そうだ、親父の遺品整理のために実家に向かっているんだった。前日まで色々と立て込んでいたため疲れてついうたた寝してしまったのだろう。
……何やら恐ろしい夢をみていた気がするが思い出せない。
列車がトンネルを抜け薄曇りの空から射す光が車内を照らす。それから少しすると故郷である葛森が見えてきた。
帰ってきた……その懐かしい光景に情緒に浸っていると、ふと違和感を感じる。確かに自分は、望郷の念とは別に、何やら言葉で言い表せない胸のざわめきを感じとっていた。
―――しかし、この時の自分はまだ知らなかったのである。この胸のざわめきが一体何を伝えようとしていたかということを……