3日目
灰色の空、灰色の地面。空気はじめじめとした湿気をはらみ汗が肌を流れる。アスファルトで舗装された道は雨を弾き水たまりを作っている。
そのような新市街の街並みを自分は歩いていた。それは予定していた計画に狂いが生じたことに起因する。当初の予定として、遺品整理は数日で終わらせるつもりであった。しかしすぐにその判断を覆すこととなる、遺品の数があまりにも膨大すぎたのだ。こうなってしまえば長期戦の構えでいく他なく、こうして改めて生活に必要な日用品を買い集めているのであった。
スーパーや雑貨店などの生活に必要なものを売っている店は、だいたい新市街に集まっている。また本屋や駄菓子屋などの娯楽品も手に入れることが出来る為、新市街にはこの街で生活するために必要なものがすべて揃っているといっても過言ではない。そのためだろうか、新市街には旧市街より人の気配を濃く感じていた。
ショウケースに展示してあるアンティーク時計を眺めていると、ガラスに映った女性に気がつく。背後にいる彼女は少し申し訳なさそうな顔をしながらこちらを見ていた。
「すみません、少しお時間よろしいでしょうか」
振り返った自分への第一声は、内容とは裏腹にシンと空間に響くものであった。
「……なんでしょうか」
「道をおたずねしたくて……」
先日のことがあったため少し警戒していたが、今度は本当に初対面だったようだ。……しかしだ、道など聞かれたところで葛森の地理など答えられることのほうが少ない。だが、そんな自分の事情など知りようがない彼女は話を進めていく。
「この街の郷土資料館や図書館の場所を知りたくて」
……軽く記憶を漁ってみるが残念ながら心当たりがない。
「申し訳ないが俺も葛森には野暮用があって滞在しているだけでね、地理には詳しくないんだ」
「そうだったんですか、それは失礼しました」
「……ただ交番の場所ならわかるから、そこで聞いてみたらどうだろう」
そう言って彼女に交番の場所を教える。
「ありがとうございます」
そう言うと彼女は、軽く会釈してから去っていった。
しかし彼女は何者だろう、葛森の人間ではないようだが。年は恐らく二十にとどいてないくらいだろうと思う。……まあ自分には関係のないことか。
湧いた疑問を頭の片隅に追いやり歩き出す。
葛森の西端の外れ、そこには直径数十メートル程度の小さな湖がある。那垂湖と呼ばれるこの湖は様々な生物が生息しており、昔はここでよく釣りをしたことを覚えている。周囲は森に囲まれており、岸辺からは今にも壊れてしまいそうなぼろぼろの桟橋がかけられていた。
本当は来る予定などなかったのだが、近くを通った時に懐かしむ想いに負けてつい寄り道してしまった。街から少し外れてしまっているが先日の事件は街の反対側で起こった出来事のため大丈夫だろう。
湖面に近づく。水は濁っており中の様子を窺うことはできない。しかし時折、水面に映る影がそこに潜むものたちへの想像を掻き立てる。
……暇を見つけてまた釣りに来てもいいかもしれないな。
そう考えて桟橋に視線を移す。
「ん?」
―――まだ小学生くらいだと思われる少女が、桟橋の上に立っていた。
どうやら先客がいたらしい。気配が薄く実際に見るまで存在に気がつかなかった―――いや、実際に見ている今でさえ注意していなければ、そのまま空気に溶けてしまいそうな……そんな儚さを感じる。彼女はこちらに気づいていないのかぼんやりと湖面を見つめ続けている。
……いけない。ついつい彼女を見続けてしまっていたが、こうも長時間知らない男から無遠慮に見つめられていては彼女も愉快ではあるまい。……たとえこちらに気がついていないとしても。
踵を返して湖から離れ始める。そうして数歩進んだ時。
ぽちゃん。
背後から何か水が跳ねる音がした。
訝しんで振り向くと桟橋の上から彼女が消えていた。まさか本当に溶けてなくなってしまったか……などと阿呆なことも考えたが、水面に立っている波紋を見て背筋に冷たいものが走る。
湖に向かって走り出し、そのまま躊躇うことなく湖に飛び込んだ。
いくら温かい時季とはいえ、さすがに水中は冷たく皮膚がピンと張りつめている感触がする。水が濁っているため先を見通すことはできないが、それでも必死に腕を振り回した。
右手が何か大きなものに当たった!
そのままそれを掴んで引き寄せる。
……重い! が持ち上げられないほどではない。
水面上に持ち上げたそれの正体は、想像通り先ほどの少女であった。
彼女を桟橋の上にあげて、そのまま自分も上がる。
「はぁっはぁっ」
息苦しい、水を吸った服が肌に張り付いて気持ちが悪い。服の下に何やら異物感を感じて覗きこんでみると、何匹かの小魚が入りこんでいた。上着を脱いで魚を湖に投げ捨てる。
そうこうしているうちに気がついたのか、彼女は相変わらずどこを見ているのか分かり辛い瞳でこちらを見つめていた。
「どうして私を連れ戻したんですか?」
彼女はそんなことを言い出した。その表情からは不満が見て取れ、とてもではないが命の恩人に対する態度ではなかった。
……正直、少しイラついたが、ここでキツイ言い方をして同じことをされてはたまらない。なるべく刺激しないような言葉を選んで話しかける。
「何があったかはしらないけど、もう少し色々と考えてからでも遅くはないんじゃないか」
彼女の口からは溜息が漏れた。
「……別に自殺しようとしたわけではありません」
そう言うともう話すことはないとばかりに、そのまま走り去ってしまった。
そうして、そこには全身びしょ濡れのまま唖然とした自分だけが取り残されたのであった。
夜、疲れていた自分は、早めに床に就いていた。部屋の天井にぶら下がった電球が燈色に怪しく輝く。そんな灯りを見つめていると意識が燈色に溶けていくかのように感じられてぼんやりとしてしまう。
……おぉぉ……ん……
野犬の鳴き声だろうか……耳を澄ましてみるがもう聞こえない。そんなことをしている間にも、意識はだんだんと曖昧になり夢と現実の境界があやふやになってくる。そのまま、意識がぼぅっと濁り途切れてしまうその瞬間―――
……おぉぉ……ん……
どこか空虚さをはらんだ声が、空にこだました。