二 夏越しの宴①
季節は移ろい、夏が近づいてきた。
宮中では近く宴が催される。
厄払いの神事を兼ねた『夏越しの宴』と呼ばれているものだ。
新年の宴と夏越しの宴が、国事として宮中で行われる二大宴である。
これには、普段は宮城の奥で静かにお暮しになっている御子方も表の方へお出ましになり、それぞれに歌や踊り、楽器の演奏などを披露するのが慣習となっている。
身体の無理が利かない紅姫は今回も出ない予定であるが、縹の御子は横笛の演奏で出る予定だ。
本来は掛け合いで演奏する『空蝉』と呼ばれる長い曲を、御子は今回、ひとりで演奏する。
これの練習に時間が取られ、御子は年明けから春まで月の宮にこもっていた。
その隙を突かれ、あらぬ噂を立てられた。
これに懲りた御子は以来、折を見ては紅姫の許へ向かい、楽しい時間を持つよう心掛けた。
御息所云々についての噂も、『すべてはまだ本決まりではない』という事実を、人を使って意図して宮中に広めるよう努めた。
お陰で『縹の御子の御息所は綾の姫で決まりらしい』という噂は徐々に収まってきた。
もっとも『綾』の一族が、このまま大人しくしているとも思えないが。
「『綾』の総領娘は、今回の夏越しの宴での節会の舞姫に選ばれたそうですよ」
春の終わりに紅姫から、御子はそんな話を聞く。
『節会の舞姫』とは、宴の冒頭に舞われる奉納舞を舞う乙女を指す。
厳粛な新年の宴と比べ、夏越しの宴は神事というよりも娯楽の要素が強い。
それでも冒頭の奉納舞は神事の色合いが濃く、この奉納舞を舞う舞姫は、その世代で一、二の舞い手と決まっている。
「選ばれたといいますか、少々ゴリ押しだったそうですが。アチラも色々と大変なようですね」
いつになくツンツンした物言いをする紅姫へ、御子は微苦笑を口許に含む。
『綾』の総領娘はあれ以来、紅姫にとって仮想敵である様子だ。
「ゴリ押しだろうと何だろうと。節会の舞姫になるというからには、かの方はそこそこ以上、舞がお上手なのでしょうね。そうでなければ却って恥をかくのは綾の姫、引いては一族ですから」
取り成すように御子が言うと、紅姫はややご機嫌を悪くした。
しかし実際の話、並み以上の舞い手でなければ、目の肥えた貴人たちの集まる場で奉納舞など舞えない。
「確かにかの方、下手ではなさそうでした。我も、垣間見程度ですけど見たことがあります。でも、他の候補者……特にウチのなずなの方が、余程すっきりとした所作の美しい舞を舞いますのよ」
『なずな』の名を聞くと御子は、知らず身体のどこかが身構えるような心地がするのだが、気付かぬふりをする。
「なずなは元々、北の地の氏神を祀る社で巫女の修行をしていたとか。宮仕えの前には、何度か奉納神楽を舞った経験もあるそうです。通りいっぺんの練習しかしていない者より余程、素晴らしい奉納舞が舞えるのに。候補者の中で一番身分が高いのを理由に、かの方に決まったのだそうですよ。こういう場合にはよくあることですけど、一体、奉納舞をどう思っていらっしゃるのでしょうね、アチラは」
神へ捧げる舞を駆け引きに使うなんてと、唇を尖らせる紅姫をなだめながら、御子はふと、部屋の隅で控えている珍かな色変わりの髪の少女へ目をやる。
当のなずなは、几帳の陰に隠れるようにして身を縮めている。
己れの主が己れを褒めて下さるのは嬉しいものの、褒められ過ぎて困惑している様子が肩のあたりの揺れからもわかる。
あれ以来、不思議な声を聞くことはない。
『なずな』という伺候名の少女は、すっきりとした立ち居振る舞いの子だったが、特別美しい顔立ちをしているのでもない、大人しやかな子だ。
他の女童たちと仲良く、真面目に務めているらしい様子はほの見えるが、それ以上どうということはない。
紅姫のそば近くに侍っている女童はみな紅姫のお気に入りの子だから、きっとなずなも姫のお気に入りなのだろうと、御子としては思うだけだ。
(それ以上ではない、な……)
紅姫を訪ねる度になずなと顔を合わせるようになっても、特に何かが変わることなどなかった。
ただふとした瞬間、朋輩たちと笑うなずなの笑顔にハッとしたり、名を聞くと胸のどこかがきゅっと絞られるような心地はしたが、すぐに紛れて消えてしまう程度のゆらぎだ。
だから御子は、他の女童たちへ向ける笑みと同じ笑みをなずなにも向け、手土産にと用意した菓子や練り香、繊細な色合いの美しい紙などを渡した。
朋輩たちと喜んでいるなずなは可愛らしいと思ったが、それは他の女童が可愛いのとほとんど変わらない。
あの不思議な声が聞こえたような気がしたのは、きっと何かの間違いだったのだと最近、御子は思うようになっていた。