一 うるわしき春の日に⑦
「お久しぶりです、紅姫。先程、母君様の御許へ政の用があって参りました太政大臣でございます。こちらへご機嫌伺いに参りましたが、何卒お顔を見せて下さいませんか?」
笑みを含んだ飄々とした声に、紅姫は毒気が抜かれたように口をつぐむ。迷うような目をした後、
「わかりました、どうぞ」
と、ため息をまじえて答えた。
紅姫の側付きの者たちが風のように動き、几帳が取り払われ、太政大臣は導かれる。
その際、隅で小さくなっている御子へ太政大臣は、やや強引に紅姫の向かい側へ座るよう目顔で合図した。
紅姫の怒りのまなざしが怖かったが、御子としてもこのひどい誤解が解けるまで、ここから辞するつもりはない。
勧めに従い、伯父君の隣に用意された円座に座る。
この事態に至り、新入りの女童はようやくハッと身じろいで針を置き、朋輩たちの近くまでいざって叩頭した。
針箱と布類は、流れるような動作で女房のひとりが片付けた。
「久方ぶりでございますね、紅姫。少し前にお風邪を召していらっしゃったと漏れ聞いておりましたが、お元気になられたようで何よりです」
「ええ……まあ、お陰様で。ありがとうございます」
紅姫は御子と目を合わせず、気のない素振りで形だけの答えを太政大臣へ返す。
「さきほど、少し耳に入ってしまったのですが。なにやら姫は、縹の御子について思い違いをなさっているようですね」
「……どういうことでしょうか?」
怒りを押し殺したようなムッとした低い声で問う紅姫へ、太政大臣はニコニコしながら続ける。
「『綾』の方からぜひウチの総領娘を縹の御子の御息所へ、という話は非公式に来ています。アチラは昨今、宮中で日陰に追いやられていると不満を溜めているのも事実ですから、話に乗ってやるのも悪くないでしょう。でもまだ本決まりではありません。実は『綾』の姫当人に、その…少し言いにくい、難しい部分がありましてね。決めかねているのが本当のところです」
ですから縹の御子へ具体的な話は行っておりませんよ。
扇を弄びつつ、笑みを含んだ柔らかい顔で太政大臣は言った。
「采女についてもそうです。時期的にそんな話が出ているのは確かですが、具体的にはまだ何も決まっておりません。決まっておりませんから当然、縹の御子の御許へは誰も送られてはおりませんよ」
紅姫は、怒っていいのか笑っていいのかわからないという感じに、複雑に顔をゆがめた。
太政大臣は笑みを深める。
「紅姫のお耳にまでそのような噂が届いたということは。『綾』の方では、なり振りかまわず縹の御子の御息所の地位を狙っているのでしょう。いかにも『綾』の総領娘が縹の御子の御息所に決まったのだという噂を流し、他家を牽制しつつそういう空気を宮中に造り上げ、この話を確実にしたい、と。まあ……、昔からよく使われる手です。地味ですが、意外と効果のあるやり方ですからね。現に、こうして紅姫もお信じになられたくらいですから」
つまり『綾』は、表からも裏からも画策しているということです。
深めた笑みを少々寂しそうに曇らせ、太政大臣はそう締め括った。
紅姫はばつが悪そうに軽くうつむき、唇をかんだ。
「……紅姫」
おずおずと御子が呼びかけると紅姫はそろっと目を上げ、今日初めて、真面に御子の目を見た。
「まずはお詫びを申し上げます」
御子からの思いがけない詫びの言葉に、紅姫は目を見張る。
「我がぼんやりしていたせいで、姫に余計なご心労をおかけしていたのですね。次の新年には成人だということ、もっと真剣にとらえるべきでした。己れの存在が、こういう様々な思惑を無視できない立場なのだということを、もっとちゃんと考えて行動するべきでしたし……何より」
ふと御子は、無意識のうちに父君譲りの蠱惑の笑みを浮かべ、紅姫を見つめる。
「ここしばらく、雑事にまぎれて紅姫とお会いする時間を持ちませんでした。遠慮が無沙汰、などという言葉もありますが、正にそんな状態だったかと。今後はもっと気を付けます」
「……縹にいさま」
よそよそしい『縹の御子』ではなく、紅姫は、常に呼ぶ呼び名で御子を呼んだ。
御子は再び笑む。
「我が紅姫を裏切っていないこと、我の与り知らぬところで御息所のことなどを取りざたされていたこと。信じていただけますか?」
頬を染め、紅姫はうなずいた。
「……はい。我こそつまらない思い込みでの八つ当たり、お詫び申し上げます。どうぞお許し下さいませ」
部屋に響く呵々大笑。
太政大臣だ。
「やれ、仲直り出来ましたね。良かった良かった。……そうそう。手土産代わりに菓子を持参しています。側付きの者の分も用意しておりますので……それ」
太政大臣は扇で、一番端で平伏している新入りの女童へ合図した。
「そこの子。お前たちの朋輩の分を取っておいで」
急に声をかけられ、その女童は瞬間的に身をすくめた後、
「ありがたきこと。謹んであたたかいお心遣いに感謝いたします」
と、意外としっかりした声で答えた。
おや、と太政大臣は、そこで初めて気付いたのか、扇をトントンと脇息に打ち付けて軽く目を見開いた。
「お前、見かけない子だね。ああ、そういえば新しい女童が入ったとか聞きましたが……お前がそうなのかな」
紅姫が後を引き受ける。
「ええ。我に刺繍の手ほどきが出来るくらい、刺繡上手な子を見つけたので、と。一昨日から我の側で侍るようになりました。伺候名は『なずな』と申します」
『伺候名』とは、宮中で仕える殿上童や護衛士などにつけられる、宮中だけでの呼び名である。
「おお、なるほど。素朴な可愛らしさのある、この子に相応しい伺候名だ。半ばまで黒で徐々に色変わりするその珍かな髪色、鶺鴒に所縁のある子かな」
「はい。北の国・鶺鴒の氏族の総領娘だそうです」
「なるほど。これ、なずなよ」
太政大臣に声をかけられ、少女は震える声で返事をした。
「紅姫は縹の御子に関しては心乱してしまわれるものの、それ以外ではお優しい方だよ。よき主である故、しっかり励め」
「伯父君様!」
顔を真っ赤にして、紅姫は抗議した。
(……なずな、というのか)
平伏している少女の、色変わりの髪を見ながら御子は、心の中でひとりごちた。