終章
そして大晦日。
新年を明日に控え、厳粛な中にも華やいだ気配に満ちている王都であり、宮中である。
ただ、『あらたまごと』を前にした王族の方々は、ひたすら心静かに新年を待っていらっしゃる。
浮ついた心持ちでは『大白鳥神』の御霊をその身に降ろせない。
必然、心静かにお過ごしになるしかないという事情でもある。
この度、初めての『あらたまごと』へ臨む縹の御子は、他の方以上の緊張と気負いを持ちながら来るべき時を待っていた。
儀式の前の潔斎も禊ぎも一通り済み、もはや宵。
今、彼は控えの間で待機をしている。
神事のために用意された衣装の一揃いもきれいに畳まれ、後は定刻に着付けられるのを待つばかりである。
(それはそれとして。冷えるなあ)
火鉢を抱えるようにして円座に座り、御子は胸の中でひとりごちる。
潔斎中、食事は当然制限される。
年若い御子にとって、食事の制限が一番つらかった。
薄い粥が椀に一膳、後は青菜の塩漬け程度の食事がもう五日間続いている。
空腹もつらいが、寒さはもっとつらい。
食べないと寒さが身に堪えるのだと、彼は生まれて初めて実感していた。
だが、きちんと身になる食事を摂らないと冬の寒さはより一層堪えるのだと知れたのは、やがて大王と共にこの世を統治す者として大切な経験だと御子は思った。
不作の年の貧しい民は、一冬、こんな思いをして過ごすのだ。
そのつらさを肌で実感できたのは貴重だ。
そう思えるくらいには、為政者となる自覚が出来たのかと御子はふと思い至り、かすかに苦笑する。
(あの方の隣に立つ男としては、まだまだだがな……)
肩巾をいただいたあの後。
淹れ直した茶と新しい菓子が出てきて、御子は久しぶりに紅姫と、小一時間ほど他愛のないお喋りをした。
半分だけ刺繍した肩巾を『あらたまごと』で使うと断言した御子を、日の宮・東の対屋の者たちも少しは見直したのかもしれない。
少し、だが。
そのお喋りの中で紅姫から、病抜けして以来、刺繍や絵物語を楽しむような静かな遊びではなく、今まではすぐに疲れたり息が切れたりして練習もままならなかった楽器に夢中になっているのだと聞かされた。
「では、こちらへ向かう途中で聞いた笛の音は、紅姫が奏していらっしゃったのですか?」
問うと、紅姫は面映ゆそうに目を伏せて
「ええ。お恥ずかしいです、始めたばかりとはいえ本当に下手の横好きで。指が上手く動かずもどかしい思いをいたしております」
と言う。
縹の御子は例の美しい笑みを浮かべた。
「ご心配なく。指の動きは追い追いなめらかになって参ります。ですが、持って生まれた音色を磨くのは難しいもの。ほんの少し耳にしただけですが、あの音色は十歳そこそこの童女の音色ではありませんでした。いつまでも聴いていたい……そう思わせる何かがある、趣深い音色でしたよ」
紅姫はやや上目遣いになり、唇を軽くとがらせた。
頬が少し赤い。
「お上手ですこと。さすがは『当代一の雅男』の誉れ高い、月影の君のご令息でいらっしゃいますわ」
「我は確かに、雅男と呼ばれる父の息子ですが」
当惑したように眉を下げ、御子は言う。
「雅男なぞにはなれません。第一、我はおそらくこの先、新しく恋する方は現れないと思うのです。今現在愛する方へ誠実に向き合う以上の余裕など、我にはありませんから。貴女と、今度御息所となるましろ……綾の姫以外、我の人生に必要ありません。二人も愛する人を持つのすら、我の器ではいっぱいいっぱいです」
紅姫は脱力したような表情で、馬鹿正直な許婚者の生真面目な顔を見た。
「貴方という方は……はあ。まあそうですね、確かに貴方は雅男になれそうもありません。それが貴方という方なのでしょうね」
何かに納得したのか、あるいは諦めたのか。
紅姫はそう言うと、頃合いに冷めたお茶で唇を湿らせた。
後で、『愛する人』として紅姫だけでなくましろの名も一緒に出したのは良くなかったかと思いヒヤッとしたが、もはや取り返しはつかない。
今後は気を付けなければならないが、またうっかりやってしまいそうだ。
(紅姫にだけでなくましろへも……やってしまうのだろうなぁ)
自分は本当に無神経だと、意味なく火鉢の灰をかき混ぜながら彼は思う。
もちろん意図してそうするのではないが、良くも悪くも嘘が苦手な己れだ。
思いつくまま不用意に言の葉をもらし、愛する人たちを傷付けてしまうかもしれない。
(……それでも。二人を愛しく思う気持ちは変えられない)
恋とは呪いのようなものかもしれないと、彼はふと思った。
目を上げた先に神事の衣装一式がある。
緋色の肩巾の刺繍は、紅姫が刺した右半分だけの大白鳥。
あの時、半端な神の鳥の意匠は半端な己れに相応しいと紅姫に告げたが、あながち方便ではない。
文字通りの意味で正解だと、改めて彼は思う。
(己れが半端であると戒める拠り所として。これ以上に相応しいものはない……)
半端者は半端なりに、よたよた進んでいくしかないのだから。
太鼓の音が響いてきた。
いよいよ大白鳥神の和霊の坐す畏みの社へ向かう時が来たようだ。
衣擦れの音が近付いてくる。
着付けを手伝う神官たちだろう。
縹の御子は静かに立ち上がり、大きく息をついて一歩、踏み出した。
【了】




