十 冬来たりなば……⑦
「それに」
少し頬をゆるめ、紅姫は続ける。
「この話をまず、こちらへ内密に持ってきたのは。実は、綾の姫その方なのですよ」
意外な話に、縹の御子は目を見張る。
「かの方は、親や世間と果敢に戦ってまでご自身の初恋を貫いた烈女でもあらっしゃいますから。昨今ささやき声で噂される『縹の御子の秘めた初恋』、つまり縹の御子の身分を超えた恋に甚く共感なさったそうで。雅男のお父君に似ず堅物、と、つい最近まで噂されていらっしゃった縹の御子がそこまで思っていらっしゃるのだから、きっとお相手は素晴らしい方なのだろうともお思いになったそうです。もちろんそうだと、我も請け合いました」
縹の御子は、この事態を素直に喜んでいいのかどうかよくわからず、ただ困惑した。
紅姫が言うには、『縹の御子の秘めた初恋』という仰々しい題がついたこの噂話、本人の知らぬ間に宮中でかなり広がっているらしい。
御子としては、取り立ててこの件を隠してはいなかったが、あれこれ噂されるほど甚だしい行動を取った覚えもない。
ひっそり、地味に恋を育んでいただけである。
縹の御子ほどの年齢の、成人を迎えつつある王族の御子ならば、この程度の艶話のひとつふたつ、ある方がむしろ普通であろう。
ただ今までの御子が堅物すぎたので、周りの者はことさら騒ぐのかもしれぬ。
こちらも正直、大層な困惑案件である。
紅姫は続ける。どことなく、いたずらを楽しむ幼子のような表情でもあった。
「親が、王族の一の御子の御息所を一族から出すのが悲願であるのなら、御子の思い人を養女に迎えればよいと思い付いたそうです。一族としては御息所を出すことが出来、縹の御子は思い人を日陰のままにすることなく、綾の姫その方は、誰憚ることなく愛する男と添い続けられる。皆が幸せになる道はこれしかないとお思いになられたそうです。……確かにその通り、と、我も思いました。なずな……鶺鴒の方は。我の女童であった頃、大好きでしたもの。姉君がもしいらっしゃったとしたら、かの人のような感じかともよく思ったものです」
「……紅姫」
「ああお気遣いなく。これは感傷のようなものです。ただ、その時の互いの親愛の情、かの人の誠実な人となりは、今でも我は信じています。立場が変わってしまったのですから、これまで通りの隔てのない仲の良さは無理でしょう。でも、かの人を憎んだり貶めたりすること、かの人が不幸せになるのは嫌です。それこそ……光の神である祖神・大白鳥神の末裔に連なる者の、誇りが許しません」
縹の御子はハッと息を呑んだ。
『誇りが許しません』と言い切った紅姫の後ろに、果てない青空を悠然と舞う、真白の神の鳥の幻影が見えた。
ああ、この方は確かに神の血を継ぎ、そして神に求婚されるだけのものを持った方だと覚った。
己れは果たして、この方の隣に立てるだけの男なのかと、御子は情けない気分になった。が、
『……諾。その気持ちを忘れないように』
という、かの神の玲瓏たる声を思い出し、彼は下腹に力を込める。
神の求婚を押しとどめ、この現世に紅姫を止めたのは。
他でもない、自分である。
引き留めた限りは、かの方の隣に立てる男にならねばならぬ、責務がある。
「どうなさったのですか?」
黙ってうつむく御子の様子に、不審に思ったか紅姫が問う。
頭を上げてほほ笑み、御子は、今日こちらへ来るのなら必ず訊こうと思っていた事柄を、意を決して問うた。
「紅姫。ひとつ、お伺いさせていただきたいのですが……」
首を傾げ、目顔で先を促す紅姫へ、御子はひとつ大きな息をついて、言う。
「我の為に刺繡をして下さっていた、『あらたまごと』用の装束に使う肩巾。いただいて帰って、よろしいでしょうか?」
もはや忘却の彼方にあるともいえる話に、紅姫の瞳が苦し気に曇る。
しかし声音は静かなまま、彼女は答えた。
「申し訳ありません。あの日、熱で倒れて以来。我は刺繍針を持っておりません。刺繍そのものに……興味を持てなくなったのです」
あれほどお好きだった刺繍に、『興味が持てなくなった』と。
理由などわかり切っている。
胸がキリキリと痛んだが、御子はあえてもうひとつ問う。
「もしかすると。あの肩巾はすでに、処分してしまわれたのでしょうか?」
怪訝そうに小首を傾げつつ、紅姫は答える。
縹の御子が何故あの肩巾に執着を見せるのか、不可解なのであろう。
「あ、いえ。さすがに処分までは。物置のどこかに保管したままだと……」
ほうっと大息をつき、御子は笑んだ。
父君譲りの『華やぎに儚さのまじる』笑みだ。瞬間的ながら、紅姫はその笑みに見惚れた。
「良かった。あの時に少し見せていただいたのですけど、あの肩巾の刺繍は丁寧で細かくて、大変素晴らしい刺繡でした。姫は覚えていらっしゃらないかもしれませんが、我は何度も『紅姫が刺した肩巾以外で、あらたまごとへは参じません』と申し上げていたのですよ。その誓いは今でも変わりません」
「で、ですが……」
思いがけない話に、紅姫はやや狼狽えた。
「あれは、半分ばかりしか刺しておりません。今からではとても間に合いませんし、そもそも我はもはや、刺繍針を持とうとは思いませんし……」
「そのままでかまいません」
静かに強く、御子は言った。
「調べたのですが。あらたまごとの装束に使われる肩巾は、『緋の絹地に金の糸で大白鳥神の姿を刺繍したもの』という決まりになっておりますが、『大白鳥神の全身図』とはなっておりません。見せていただいた限り、あの刺繍はどこからどう見ても『大白鳥神』のお姿でした。少なくともお顔から首筋、右半分の胴と翼は完全でした。あのまま、後は月の宮の縫子に周りだけかがってもらえば肩巾として使えます。ですので……」
「は、縹にいさま!」
思わずのように紅姫は腰を浮かす。
「そんな……不完全な刺繡での肩巾など! 縁起が悪いですよ!」




