十 冬来たりなば……②
東の対屋の奥、紅姫が臥せっていらっしゃる寝間の手前に、縹の御子は父君と共に一度、留め置かれた。
形ばかりながら茶菓を供される。
そして、今ちょうど薬師が紅姫を診ているので、しばらく待ってほしいと告げられた。
「例のこと以来、紅姫は病抜けしたとばかり……」
茶を飲みながらつぶやく父君へ、縹の御子は黙って面を伏せて菓子をつついた。
生まれた頃よりかの方を悩ませ続けていた、業とも呪いともいえる病は確かに、御身から去ったであろう。
だがそれと同時にかの方は、生まれた時から信じていたであろう人間に裏切られた。
もちろん、こちらにそのつもりはなかった。
が、かの方にとっては裏切り以外の何物でもなったであろう。
『つもりはなかった』では済まない。
時が経つにつれ、御子はじわじわと紅姫の痛みや苦しみが、ようやく我が事として察せられるようになってきた。
想像するに余りある、痛みや苦しみだ。
そんな大きな苦痛を己れより三つも下の少女に背負わせ、今までぼんやり過ごしてきたという悔いが、今更ながら彼の胸を食む。
その苦痛が気鬱を、気鬱が病を呼んだであろうことは、想像に難くない。
(どれほど詫びても許されない……それだけのことをした)
一生許されなくても仕方がない。
許されなくても……御子が紅姫を思う気持ちはなくならない。
だがもし、かの方が御子の顔を見るのも疎ましいと、心底思うのならば。
断腸の思いで、今後はかの方と関わらない道を模索した方がいいのかもしれない、と思い始めている昨今だった。
「縹よ」
不意の父に名を呼ばれ、御子はハッと顔を上げた。
「お前、よもや逃げるつもりではあるまいな?」
「はい?」
首を傾げ、御子は己れの父の顔をしげしげと、何年かぶりにきちんと見た。
繊細な面立ちで、常にどこか物憂げな表情が揺曳している父。
しかし彼の真顔は、怖ろしいまでに厳しかった。常はだらしのなさが目立つ父が今日、一人の大人の男なのだと御子は感じる。
「務めからもお役目からも、許婚者たる紅姫からも逃げ、鶺鴒の姫と市井に沈んで暮らすつもりなのか?」
そんな馬鹿なと思った一瞬後、ひどく蠱惑的な設定だとも密かに思った。
愛する者とつつましく、京極の小さな屋敷でひっそり暮らす。
なんと甘やかで、なんと安楽な暮らしであろうか。
すべての務めや役目を捨てるかわり、今まで得ていた特権もすべて捨て、ただの夫婦として町の外れで暮らす。
出来る訳がないしするつもりもない、荒唐無稽な話だったが……そう出来ればどれほどいいかと、瞬間的に御子は思った。
「この父は、元々お前に何を言う資格もない。世間で『雅男』『訳知り』『色好み』などと呼ばれているが、お前たちの目には、ふらふらしているだけの情けない男に見えるであろうしそれを否定しない。そもそも我は幼い頃から、何故己れのようなつまらぬ者が王族の濃い血を引いた者として生まれ、重く大切なお役目を負わねばならないのかと、疎ましく思ったもの……しかし」
いつもはどこか気弱な父とは思えない、鋭い眼光で御子を見て、言う。
「最低限の務めやお役目から逃げるのだけは、己れに戒めてきた」
そんなこと当然だ、と思う反面、御子は、思いがけない者から思いがけず、ひどく痛む部分をいきなり刺されたような気がした。
不意に月影の君は、恥らうように目を伏せた。
「いや、余計なことを言ったね。我などが言わなくとも、縹は愚かではない。今は心が弱くなっているだけだとわかっているが……」
伏せた目をあげ、やや寂しそうに彼は笑んだ。
『華やぎに儚さがまじる、さながら桜吹雪のごとき笑み』。
彼の笑みは恋の場面だけでなく、こういう場面でも言の葉以上に雄弁らしい。
「紅姫と向き合うこと、あきらめないでほしい」
「……はい」
己れでも意外なほど素直に、御子はそう答えていた。
唐突に奥の気配があわただしくなった。
何事かと、月影の君も縹の御子も中腰になる。
「月影の君! 縹の御子さま! 至急こちらへいらして下さい!」
慌てた女房の声に、父子は、几帳を身体で押してまろぶように部屋を出た。




