一 うるわしき春の日に⑥
途端に、少女たちはいっせいに身じろいだ。
御子の視界の左側にいた女童たちはいざりながら隅へ行き、深く腰を折って平伏した。
不服そうに頬をふくらませ、すがめた不機嫌な目をこちらへ向けるのは紅姫。
不思議そうに朋輩たちの様子を確認しているのは、新入りらしい女童。
なるほど本当に新入りなのだなと、御子は思う。
咳払いや扇を鳴らす音は貴人がそばにいるということ、姿が見えなくとも畏まって控えるべし。
殿上童として宮城に仕えるようになった少年少女は、世話係の侍従や女房からまずそう教わる。
が、即座に身体が反応するようになるまではしばらくかかるもの。
この女童はおそらく、紅姫の許に上がって二、三日というところだろう。
その新入り女童は、己れの主が睨んでいる方向へ何心もない様で振り向いた。
童子結いのつやのいい髪は肩辺りまでが黒で、そこから先は徐々に白へと色変わりしているという珍しいもの。
北の古い氏族・鶺鴒の一族に所縁の者かもしれない。
そう思ったのとほぼ同時に、御子は、振り向いた少女と几帳の隙間越しに目が合った。
刹那、
『この方は特別な方』
『そして対なる方』
『次の世の礎たる方』
と、誰とも知れぬ、されど心が痛くなるほどに懐かしい声がした。
三歳のあの日、紅姫と初めて会った日に聞いたのと同じ声だった。
(な……に?)
軽い眩暈がし、御子は思わず手にした扇を握りしめた。
あの時と同じ声の、同じ内容。
意味がわからず、彼は激しく混乱した。
「……あら」
冷ややかな声に、御子はハッと姿勢を正す。
「どなたかと思えば。縹の御子であらせられますのね」
その呼び名の元になった紅の双眸を怒らせ、姫は冷笑を口許に含む。
「母君様に命じられ、しぶしぶこちらへいらしたのでしょうけど。気持ちのこもらないご機嫌伺いなど不要です。お引き取りを」
「……紅姫」
扇で口許を隠すようにしながら、御子はため息をついた。
「なにやら、ひどく御不興のご様子。姫がそこまでお怒りになるようなこと、知らず知らずに我はしてしまったのでしょうか? 申し訳ありません、ですが我には心当たりがないのです……」
「んまぁ、しらばくれて。ご自身の胸によくよくお聞きになって下さいませ」
ツンと横をむきながらも、紅姫は軽く涙ぐんでいるご様子だ。
「大体、こんなかわいげのない我を気遣う暇がございますれば。御息所になられる、綾の一族の姫へご機嫌伺いに向かわれた方がよろしいのでは?」
「はあ?」
『綾』は王族に近い家のうち、真鶴を氏神に持つ一族。
鷹を氏神に持つ『剛』の一族出身の御息所が母である、御子の父君と太政大臣とは微妙に距離のある家でもある。
宮中での力の均衡を考えるなら、政略的に御子の御息所を出す可能性の高い家ではあるが……しかし。
「……あの。何の話でしょうか? 綾の姫? 我はそのようなこと、まったく聞いておりませんが」
不可解そうな御子の声に、かえって姫は怒りを燃やしたご様子。
キッと唇をかんだ後、姫はもう一度御子へ、赤くなった目を向けた。
「とぼけるのも大概になさって下さいませ。我とて、あなた様が次の新年に御息所をお持ちになるのは慣習と諦めております。ですが、ならば人伝に漏れ聞くのでなく、直接あなた様から聞かせていただきたかったと思いますわ!」
「ちょ、ちょっとお待ちください!」
思わず御子は片膝で立ち、紅姫の言葉を制した。
「誤解です、そのような話、そもそも我は初耳です!」
「それだけではありません!」
紅姫は、常の彼女らしからぬ強い口調で御子の言葉をさえぎった。
「ここ最近、縹の御子が采女を侍らせているという噂も耳にいたしました。成人も近いこのところだから仕方がない、むしろ必要なことだとも。道理でこちらへは、通り一遍の文だけでお顔を見せて下さらなかったのだと……」
「ご、誤解です! それどころか捏造です! 我が采女を侍らせている? ありえません!」
『采女』とは各地の有力な家々から召され宮中に暮らす、神に仕える乙女のこと。
宮中での神事の補佐や、様々な祭事の準備をするのが役目の官女だ。
実態は地方豪族の子女の、行儀見習い的な名誉職である。
そこから転じ昨今は、神に等しい王族の方々の、非公式の愛人を指すようになっている。
御子の父君である月影の君には、それこそ幾人も采女が仕えている。
が、御子はもちろん一人も侍らしていない。
「どこからそんな話になったのか、見当もつきません! 捏造です! 濡れ衣です! 全く身に覚えありません!」
その時、呵々大笑が渡殿から響いてきた。
複数の衣擦れと足音。
どうやら太政大臣がこちらへ来たらしい。