九 たとえ、形代であったとしても。⑤
風を切り、ぐんぐん空をゆく。
雲を突き抜け、青い青い空を飛んでゆく。
風切り音以外、音はない。
ひたすら広がる、青、青、青の世界。
(世界は広い……)
改めて紅姫は思う。
己れの鬱屈が、ひどく小さいものだと恥ずかしく思う。
「小さいからとおろそかには出来ませんよ、郎女さん」
すぐそばでそう言うのは、いろなしのみこと。
だが姿は見えない。
「ここは貴女の夢の中。貴女の夢であり誰かの夢であり、神々の夢の中でもあります。夢に隔てはなく、時も場所も超える」
声は続ける。
諭すというよりも、さながら独り言のように。
「貴女の心が見る世界が、世界のすべてではありません。ですが、最も大切で最も知り得るのはもちろん、貴女ご自身の心が見る世界。でもそれは誰であっても同じこと」
「よく……わかりません」
風切り音にまぎらせるように呟いた紅姫の言葉へ、いろなしのみことの笑む気配があった。
「誰もが心の中に己れだけの世界があるのだと、確かに感じ取れるのは良くも悪くも己れの心だと、頭の隅で知っているだけでも。少しは、生きるのも楽になりましょう」
ほらそこに。
いろなしのみことが指し示す気配に促され、紅姫は視線を転じる。
「何を言っても信じていただけないでしょうし、かの方のお心を曇らせるだけだと、わかっているのですが」
縹の御子が泣いている。
心なしかやつれている。
ああ、この方もひどく苦しんでいるのだと、卒然と紅姫は覚る。
「我は……紅姫を愛しく思っているのです。あの方に、それは身内へ対する愛情にすぎぬと断じられましたが、決してそれだけではないのです。ましろへ感じた強い執着とは、確かに少し違うかもしれません。しかし、あの方のいないこの先など、我には考えられないのです。あの方と初めて出会った頃から、我はあの方を、我が身の半分のように感じて生きて参りましたし……それは今後も、変わらないのです」
勝手なことを、という腹立ちや苛立ちが突き上げたが、同時に、少なくとも彼は嘘をついていないと信じられた。
彼自身も己れを、身勝手だとも我儘だとも感じて持て余していること、泣きながら吐露する彼の姿を見ているだけで感じ取れた。
だからと言って、許すとか許さないとかは別の話。
そもそも彼自身、簡単に許されるとも理解されるとも思っていない。
それだけはわかった。
ふいに視界がくるめき、別の場面が見えてくる。
どこか知れない、さびれた雰囲気の小さな庭。
冷たい風の吹く夕暮れ時だ。
すっかり葉を落とした庭木のそばに、人影がふたつ。
「守り刀を返して下さいな」
そう言うのは、あたたかそうな羽織ものをまとったなずなだ。
彼女もまたひどくやつれていて、目がどことなく虚ろであった。
「それは、故郷から持ってきた大切なものなのです。我が真幸くあるようにとの祈りを込め、故郷の親族が贈ってくれたもの。失くす訳には参りません」
言いながら彼女はくすくすと笑う。
どこかあやうい、正気からはずれた笑声。
(正さなければならない)
彼女の心のつぶやきが、生々しく紅姫の耳へ響く。
(不思議なめぐりあわせで、あり得ないことが起こってしまったのだから)
『あり得ないこと』とは、縹の御子に身も心も愛されたこと。
その事実を察した紅姫は、悲鳴すら上げられないひどい痛みに苛まされた。
知っていたものの何処か茫漠としていた事実を覚り、息が止まる。
なずなの心の呟きは更に続く。
(己れはそもそも、起こるであろう世界の歪みを正すようにと大巫女さまから言われて宮仕えすることになった。その己れが、別の歪みを生み出してどうするのだ?)
「仁礼殿」
呼びかけると彼女はほほ笑む。
仁礼、は確か、縹の御子の筆頭護衛士の伺候名だった筈。
「その守り刀で、御方さまは何をするおつもりだったのですか?」
下男に身をやつしているであろう仁礼が、静かに問う。
張り詰めた空気。
「先程の貴女さまは、真幸くあれとの願いを込めた大切な守り刀を血で穢すおつもりのようにしか、愚かな我には見えませんでした。なので護衛士としては、こちらを今すぐお返しする訳には参りません」
「違いますよ」
更に笑みを深くするなずな。
「血で穢すのではありません。間違いを正すのです」
(我の血で『あり得ないこと』を正す、禊ぎをするのです)
(……やめて! やめて!)
何処でもない何処かから二人を見ている紅姫は叫ぶが、声にならない。
(なずなが死んでも禊ぎになんかならないわ! 悲しむ人が増えるだけで、『間違いを正す』ことになんかならない!)
届かないと知りつつも、紅姫は叫び続ける。
(やめて! やめて死なないで! そんなこと……我も望んでなんかいない!)
お前が死んでも何も覆らない!
お前がかの方に愛されたのは、決して『間違い』ではないしお前のせいでもない!
お前を妬んで憎んでしまったり、かの方の不実を恨む気持ちが完全になくなりはしないものの。
そんな醜い気持ちにのみ翻弄されるなど……我の誇りが許さない!
そう思った刹那。
紅姫の身体はさらに高く、空の果てへと舞い上がった。




