九 たとえ、形代であったとしても。③
その頃合いの、日の宮・東の対屋。
紅姫が午睡をとる為、夜具の中で横になっていた。
静かだ。
火鉢の中で灰が崩れる、そんな微かな音すら耳が拾うほど静かだ。
女童たちもぐっすり眠っているのだろう、遠くから、衣擦れや行き交う足音などはかすかに聞こえてくるが、それ以外はほぼ無音といえる。
(我は……何の為に生きているのだろうか?)
こうして静かに横たわっていると、紅姫は昨今よくそう思う。
王族の濃い血を引く娘。
大王の、今後ともおそらくはただ一人の子。
その己れに意味がないとは、さすがに彼女も思わない。
己れを生かすこと・生かして次代に血をつなげる必要があることを、決して軽く考えている訳ではない。
この世を支えている神々の王・大白鳥神の依代になれるのは、かの神の末裔のみ。
神の血が濃いほどその素質があるとされているし、経験上それでほぼ間違っていない。
今現在、大王の血筋……最も濃い血を引くのは紅姫だ。
生きて育って成人し……次代の大王になるのは、紅姫が生まれたころから定まっている大切な役目であり務め。
だが。
(我である、必要はない)
この身に流れる血が大切なのであって、今現在『紅姫』と呼ばれている、一人の少女である必要など、ない。
極論するのならば、身体さえ生きて機能していれば魂など無くてもいい。
うつろな抜け殻であったとしても、この身に王族の濃い血が流れ、身体が健康でありさえすれば、最低限の役目は果たせる。
少なくとも、身体さえ健康であれば子は成せる。
最低限、子さえ成せれば問題はほぼないのだから、むしろ心など無い方がいいのかもしれない。
あの方も、心を失くした抜け殻の女を抱いてもつまらないかもしれないが、恨みがましく己れを見上げてくる可愛げのない女を抱くよりは、余程ましなのではないかと、繰り返し繰り返し、紅姫は思うのだ。
(なずなは我の為に選ばれた、我が身に巣食っていた忌まわしい業を受け入れる、形代であったのかもしれない。だが……)
紅姫は、やんごとない『王族』の血をつなぐ為に世界が選んで用意した、形代のようなもの。
形代に、そもそも心も魂もいらない。
自嘲しながら紅姫は、強くまぶたを閉じる。
(ここで今、眠り込み……このまま目覚めなくならないだろうか?)
王族の二の姫御子が死ぬのは困るだろうから、肉体の死は避けたい。
だが、このまま生きて悩み続け、あの方の不実――否、そもそもあの方は己れを妹としか思っていなかったであろうから、あの方ご自身は決して不実ではない――を、恨み続けるのは辛い。
辛い。
辛い。
あまりにも辛い。
せめてなずなが意地の悪い、いけ好かない娘だったのなら、心おきなく憎み、罵倒できただろう。
が、彼女の為人をよく知る紅姫は単純に憎むことも出来ない。
むしろ、なずなに惹かれたかの方の気持ちがわかるとすら、思ってしまうくらいだ。
(……辛い)
紅姫のとりえは『大王の娘』であるという一点。
しかしなずなには様々な美点がある。
大白鳥神の依代にはなれないものの、王族の業を背負う形代になれるほどの、巫覡の才。
おそらく史上最高といえる節会の舞を舞い切った、舞の才。
刺繍をはじめとした裁縫上手の腕、控え目で優しい性格、立ち居振る舞い・所作の美しさ。
どれも、持って生まれた才の上へたゆまぬ努力と鍛錬で身に着けた、彼女の美点だ。
己れの才に胡坐をかかず、磨き続けたという部分が特に素晴らしい。
(努力と鍛錬は、自分次第で続けることが出来るけれど)
彼女ほどこれらの才はない。
それくらい紅姫にもわかる。
強いて言えば『大白鳥神の依代になれる』才は、血筋から考えておそらくあるであろうが、本当にあるのかどうかは、十五の初春までわからない。
(我は形代……いいえ、我こそが形代)
形代に心はいらない。
心など、死んでしまえば楽なのに!
『いやあ、よくない。よくないなあ、可愛い郎女さん』
チチッ、という小鳥の声と共に、どこか飄々とした男の声が聞こえた。
紅姫は驚き、思わず目を開けた。




