九 たとえ、形代であったとしても。②
一瞬ひゅっと息を呑み込んだ後、縹の御子は、ややぎこちなく笑みを作った。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。あの人はこのところ、落ち着いた様子です。一時はかなり……、おそらく子を流したと思い、落ち込んでいたのではないかと奥向きのせりは申しておりましたが、その辺りも今は吹っ切れたようです」
ましろに付けていた筆頭護衛士の仁礼から聞いた話、彼女が燕雀の頭・つばくろに、不可思議な場へ連れられ諭されたらしい、ということについては言わない。
いや『言えない』が正しいかもしれない。
伯父君にはましろのことで、なにくれと世話になっているから(もっともその事態を招いたのは伯父君はじめ王族の大人たちの責任だとも、御子としては思っている。だから一から十まで申し訳ないとまでは思っていないが、今のところ世話になっているのは否めない)、本当はつまびらかにしなくてはならない。
しかしどうにもとりとめがない話なので、つばくろに諭されたましろの心の中でどんな変化や割り切り、あるいは思い切りが起こったのか、御子にはよくわからないのが本当のところだ。
しかし、あれ以来彼女の背筋がすっと伸び、何処かしらおどおどしていた瞳に落ち着きと力強さが見えるようになった。
彼女の変化に喜びながらも御子は、なんとなく置き去りにされたような、もやもやした心許なさも感じている。
「なるほど。さすがにその辺りのことは女人でないと察せない、難しい部分ですね。せりはああ見えて、優しいところがあるし気も利く。その辺りの難しい話はあれに任せておく方がよろしいかと。……それはそれとして。あの人の処遇を、今後御子はどうなさるおつもりかな?」
ずばりと核心へ切り込んでくる伯父君へ、御子は、下腹へ力を込めて答える。
「しかるべき手続きを経て、その……、我の御息所に、と」
「……なるほど」
宮の太政大臣はそこで、ゆのみを取り上げ、ひとくち茶を飲んだ。
「難しい部分は出てくるでしょうが。可能は可能ですね、前例が無い訳でもない。御子があの人をこのまま、京極のどこかに屋敷でも構えて囲うおつもりかと懸念しておりましたが、少し安堵いたしました」
「そんな、伯父君さま。あの人を日陰のままにするような、情けのないことは致しません」
むっとしたように御子は答えたが、伯父君の冷たいまでに鋭い眼光を向けられ、彼は思わず面を伏せた。
太政大臣は素っ気ない声音で言う。
「貴方の御気性から、あの人をこのままにしておくとは思っておりませんが。それにしては今の今まで、手をつかねているだけでまったく動こうとなさっていないので、どういうことかと思っておりましたよ」
そこを突かれると御子は何も言えなかった。
大きな息を吐いた後、御子は再び叩頭した。
「……はい。その通りですね。言い訳ですが、『あらたまごと』の準備やそれに関わる雑事に手を取られ、どうしてもこの辺りが後回しになっておりました。あの人自身もここ十日近く、心身が不安定だったことも話を進めるのに躊躇する原因ではありました、が……そのようなことは本当に言い訳だと、わかっております」
太政大臣はふと表情をゆるめ、御子を見た。どことなく悲しげでもあった。
「縹の御子。紅姫と……お話は出来ておりますか?」
「……いいえ」
目を伏せたまま、御子は答えた。
「お話以前に、そもそも会っても下さいません。文を送っても、字のうまい女童か女房が代筆したらしい、おざなりの返事しかいただけない有様です。紅姫にとって我は、もはや顔も見たくない裏切り者であり、それでいて将来は婚姻せねばならないという、厄介者でもあります。心底疎ましいと嫌われてしまったとしても、仕方がないとは思います……でも」
堪え切れず、御子は面を伏せたまま落涙した。
「何を言っても信じていただけないでしょうし、かの方のお心を曇らせるだけだと、わかっているのですが。我は……紅姫を愛しく思っているのです。あの方に、それは身内へ対する愛情にすぎぬと断じられましたが、決してそれだけではないのです。ましろへ感じた強い執着とは、確かに少し違うかもしれません。しかし、あの方のいないこの先など、我には考えられないのです。あの方と初めて出会った頃から、我はあの方を、我が身の半分のように感じて生きて参りましたし……それは今後も、変わらないのです」
忍び泣く御子を、悲しいような愛しいような顔で太政大臣は、静かに見守っていた。
御子の涙が収まってきた頃合いに、太政大臣は茶菓を勧めた。
上等の茶は冷めても美味い。
泣いたせいで乾いたのどに、冷たくなった緑茶の甘みがしみた。
「縹の御子。本気でそうお思いになられるのなら。その気持ちを、愚直なまでに伝え続けるしかないのではありませんか?」
腫れぼったい目で伯父君を見上げ、御子はかすかに首をかしげた。
「今すぐ和解は難しいでしょうが。あなたがそうお思いになるのであれば、その気持ちを伝え続けるしかないのではありませんか? 貴方が諦めてしまわれれば……貴方と紅姫の縁は事実上、切れてしまいましょう。切れない努力をするのは……我儘を通したい、貴方ですよ」
「しかし……、聞いて下さいませんが」
涙の残る声で御子が、やや投げやりにそう言うのへ、
「聞いて下さるまで粘り強く、伝え続けるしかないでしょうね。貴方は恋で駆け引きができる方ではありません、駆け引きが出来ないのならばまっすぐに思いを伝え続けるのが一番いいでしょう」
と太政大臣は答え、苦く笑んだ。
「我は昔。貴方とあまり変わらない、十六、七の頃ですが。言うべきことを言わずにいたことで愛しい人を苦しめた、愚かな過去がございます。つまらない矜持や自分勝手な恥じらいに負け、結果として言の葉を惜しんだが故に……、愛しい人を、死なせてしまったのです」
御子は身を竦め、大きく縹色の瞳を見張った。
太政大臣は軽くまぶたを閉じ、後悔にひしがれたようにため息を吐いた。
しかし次に目を開けた彼のまなざしには、強い力がこもっていた。
「どちらも欲しいのならば。並の男の二倍、心を砕いて愛しい者たちと向き合って下さいませ。欲張りには欲張りなりに、誠意と真情があるとわかっていただけるまで……ね」




