一 うるわしき春の日に⑤
「兄君様」
見かねたような大王の声に、さすがに太政大臣も口をつぐむ。
このような場合、『太政大臣』でなく『兄君様』で呼ぶ時の大王が怖いことくらい、身内の者なら誰でも知っている。
「あまりおからかいにならないで下さいませ。縹の御子はまだお若く、そもそも真っ直ぐな質。その質を無理に歪めるおつもりでしょうか?」
大王の低く通りのよい声が響く。
太政大臣はきまり悪げに扇を広げ、顔を半分ばかり隠すような素振りをなさった。
「あ、いえ、決してそのような。ただ縹の御子の真っ直ぐさがあまりに眩しく、かえって心配になってしまうほどであらっしゃるのが少々気にかかります故に……」
大王は低い笑声をもらし、軽くうなずいて仰せられる。
「それは……わからなくもありません。先ほども『我に御息所は必要ない』と強く拒まれました。紅姫の母としては、御子のお気持ちを嬉しく思いますが……」
そこでふと言葉を切り、大王は御子の方へ視線を当てた。
「引き止めることになってしまいましたね、御子。そろそろ紅姫を訪ねてやっていただけますか?むくれ切ったあの子の話をよく聞いて、誤解を解いて下されば。あれの母としても有り難く思います」
御意に、と御子は答え、大王の許から退出した。
御子たちがいなくなると、室内が急に静かになった。
脇息からわずかに身を起こし、大王はそばにいる者へ目で合図する。
同時に太政大臣の顔から、すっと表情が消えた。かの方も扇を小さく鳴らし、後ろで控えている幾人かへ合図した。
側付きたちはみな、それぞれの筆頭護衛士を除いて静かに退出した。
太政大臣は小さく息を落とし、複雑なものを湛えた目で大王を一瞥して言った。
「それで……、セキレイは如何に?」
大王も太政大臣と同じ目で答える。
「問題無いようです」
太政大臣は一度軽くまぶたを閉じた後、
「わかりました。後は我の仕事になりますね、お任せ下さいませ」
と、静かすぎる声で太政大臣は請け負った。
紅姫が暮らす対屋へと向かいながら、縹の御子は思う。
(……紅姫のご機嫌がよほど悪いようだが。一体何があったのだろう?)
大王でさえ持て余していらっしゃるようなご様子なのに、御子は不可解を通り越して不安ですらあった。
これまでにない紅姫の御不興、まったく原因がわからない。
ここひと月ばかり忙しくしていて、紅姫とお会いする機会が持てなかった。
折に触れて簡単な文を、庭に萌え出た若草やほころんだ梅の枝を添えて送っていたが、直に顔を合わせることはなかった。
もしかすると、それがいけなかったのだろうか?
(だがそんなこと、今までにもよくあったのだが。そもそも姫は十日ばかり前まで、体調を崩して臥せっていたと聞いている。お見舞いに参上したいと問い合わせた時も、軽い風邪なので心配はいらない、しかし万一うつすと申し訳ないからと丁重に断られたし……)
その返答によそよそしさというか、軽い違和感がなくもなかったのだが。
病んでいる時に訪問するのも良くないかと思い直し、遠慮してついそのままになっていた。
(二、三日後にもう一度、お訪ねしたいと伝えるべきだったか?……乙女心は難しいな)
つらつら考えているうちに、御子は紅姫がお住まいの対屋に着いた。
着いたのだが。
いつもならすぐ姫に取り次いでくれる者たちが、困ったような顔でもごもごと意味のなさないことを言いながら、何やら躊躇したように互いの顔を見交わしているだけ。
埒が明かない。
御子は面倒になり、お前たちが姫からお叱りを受けないよう取り成してやるからと言って、強引に紅姫がいらっしゃる部屋へと案内させた。
(……どうやらずいぶんな拗れ様。これでは側付きの者たちも困っていよう)
まったく思い当たる節はないのだが。
大王の口ぶりや皆の素振りから察するに、今回の紅姫のただならぬ御不興の原因は縹の御子にあるらしい。
(参りましたねえ、どうしたものか)
原因が思い当たらないので困惑するしかない。
御簾や几帳越しに、少女たちが楽しそうに笑いさざめいているのがうかがえる。
紅姫はどうやら、お気に入りの女童たちと遊んでいるようだ。
御子は側付きの者に目顔で合図し、声をかけるのを待ってもらう。足音を潜め、彼は几帳の陰にそっと座った。
几帳の向こうでは、とりどりに華やかな衣を身に着けた少女たちが笑いさざめいていた。
さながら花畑で遊ぶ蝶のごとしと、几帳の隙間から垣間見しながら御子は思う。
御子の視点から見て右側に紅姫、左側に顔の見知った女童が二、三。
正面に、おそらく新入りであろう女童がこちらに背を向ける形で座っている。
背筋のすっきり伸びた、紅姫より少し年長らしい少女だ。
彼女たちは皆、新入りらしい少女の手元を見入っている。
紅姫は頬を赤く染め、特に熱心に見入っている。
漏れ聞く言葉の端々から、彼女が刺繍を刺しているらしいこと、その腕前が素晴らしいことがわかる。
身体が丈夫と言えない紅姫の、一番の趣味が部屋の中で出来る刺繍であること、御子もよく知っている。
(なるほど、紅姫の為にどこからか刺繍の上手な少女を探して連れてきたのかもしれぬな)
思いつつ御子は、軽くひとつ咳払いをした。