八 霜降⑦
黒い燕は次に、ましろを見た。
「お久しぶりだね、なずなさん……いや。今はましろさんか。まあ呼び名はどちらでもかまわないさ、要するに……鶺鴒の総領姫さんよ。ちょっとばかり、妾に付き合っておくれ」
「お待ちください燕雀の頭! それはどういう…」
気色ばむ仁礼へ、黒い燕……否。
燕雀の頭・つばくろは、苦笑まじりの声で言う。
「そんなに警戒しなさんな。見るだけならばあんたにも見ていてもらうから、過剰な心配しなさんな」
その言の葉が終わるか終わらないかのうちに、辺りがいきなり暗黒の闇に閉ざされた。
身構える暇もなく、仁礼とましろは闇に囚われた。
あの時と同じ質の闇の中にいる、とましろは覚る。
不意に背筋がしゃんと伸びた。
「おや、完全に腑抜けているのかと思ったら。巫覡の部分のあんたは、真面のようだね」
揶揄する声に、ましろは気配を探った。
「ここにいるよ」
不意に白っぽい人影が、ましろの前に現れた。
あの日と同じ、白い神事の為の衣装に上等の絹で作られた漆黒の肩巾をまとった、年増の女の姿だ。
「……燕雀の、つばくろ殿」
呟くように彼女が名を呼ぶと、つばくろはニヤリと口許を歪めた。
あまり機嫌のいい笑みではない。
「はいよ。どうしたんだい、あんた。ずいぶんとよくない空気をまとってるじゃないか。あんたが病むと、あんたの情人も病んでしまうよ。忘れてるみたいだけど、あんたがたは否も応もなく繋がっているんだ」
「え?」
間の抜けた顔で問い直すましろへ、つばくろは袖をひとつ、大きく振った。
その刹那、ましろの身体にゆるくまとわりついている、影に似た黒い紐が見えた。
「その紐の先を、目を凝らしてよくよく見てごらんなさいな」
声に従い、ましろは瞳を凝らした。
暗黒の中、そこはかとなく鈍色を帯びた黒い影がすうっと伸びてゆく。
細く細く伸びた先で、不意に明るい光が閃いた。
彼……縹の御子の姿が見えた。
どうやら弓の訓練をしているらしい。
武術としての弓ではなく、神事で用いられる射法の訓練のようだ。
(『弓を引く』儀式は、大白鳥神の神事での柱のひとつでね。あの血筋の方々は幼い頃から、弓の作法を教わるのさ)
つばくろの声が、ましろの頭へ直接響く。
(しかしどうもあの方は最近、うまく弓を引けないようでね。師範に何度も注意を受けている)
確かにかの方はうまく弓が引けないらしく、冴えない顔色で首を傾げ、何度も型をさらっている様子だった。
「……あ」
思わず声が漏れる。
御子の身体にまとわりついている黒い影の紐が、何故か一瞬、濃くなった。
濃くなった刹那、はっきりとわからない程度ではあったが、彼の足元が乱れた。
白い額にうっすらと汗が浮いているのを、かすかに呼吸が乱れたのを、ましろには我が事のように感じられた。
(あんたたちは繋がっている……良くも悪くも。もちろんこれは、あんたが望んだことではなかろうよ、ましろさん。だけどあんたも最終的にはこの状況を望んだ筈だ。元々は御子さまの強い想いに押し切られるように結ばれた縁だろう。だが最後の最後にその縁を受け入れ、結ばれることを望んでしまったのは……あんた自身だ)
「はい……その通りです」
静かな声で、頭の中へ響くつばくろの声へましろは答えた。
(あんたはあんたの情人と命を分け合っている。互いの命で互いを縛り合っているとも言える。あんたが死ねば……あの方も死ぬ。もはやそれをどうこう出来はしないんだよ。互いが互いに、健やかに生き続ける努力をしあうしか今後の道はない……酷な話だけど)
「つまり我は……死ぬことも出来ない、のですね」
(……ああ。だから、生き恥だろうが何だろうが、さらして生き続けてくれないかい? あのどうしようもない我儘なお坊ちゃまが、あんたを愛しく思っているのは確かだ。あんたにとっちゃ疎ましい話だろうが、反面、少しは嬉しいと思うのならば。あの方の為に、この先を生きてやってくれないかい、ましろさん)
ましろはただ、何度も何度も弓を引く背の君を見つめた。
影に似た黒い紐がゆらぐ度、彼は苦しそうに息を乱した。
(苦しまないで……下さいませ)
あなただけが背負う、業ではありません。
我はもう逃げませんから。
共に背負います!
そう強く思った瞬間、ふっ、と、彼の身にまとわりつく紐の黒が薄くなった。
素晴らしい所作で彼は今日初めて、的の真中を射抜いた。




