八 霜降⑥
「御方さま」
秋風にも似た静かで冷ややかな声が、不意にましろの耳朶を打った。
「何をなさっているのですか、御方さま」
声に気を取られた一瞬の隙で、しっかりと両手に握っていた彼女の守り刀は、あっさり奪われた。
思わず感心するほどの鮮やかな手並みだ。
彼女が改めて声のする方へ目をやると、すぐそこに、すっきりとした立ち姿の若者がいた。
下男が着る地味な服を身に着けていたが、醸し出す雰囲気は下男のそれではない。
「名乗りが遅れたこと、お詫び申し上げます」
彼は軽く目を伏せ、言う。
「我は王族の一の御子に仕える筆頭護衛士。仁礼という伺候名を賜っている者であります。主の命により、貴女さまの御身をお守りする任に就いております。なにとぞよしなに」
「すめらぎの……一の、御子。筆頭…護衛士」
ああ、そうだった。
『縹の御子』は私的な呼び名・宮中で好まれる雅やかな呼び名だ。
かの方の公での呼び名は『一の御子』。
彼の世代では一番の年長者なので、『一の御子』。
紅姫は彼の次に生まれた姫御子なので、公には『二の姫御子』とお呼びすべきお方。
失念していた大切なことがまたひとつ、彼女の中でよみがえる。
(王族の、一の御子)
この世で並びない血族の末裔であり、ある意味神そのものといえる方。
そんな方が、己れの夫。
非公式とはいえ、己れはその方の妻。
夢でなければ質の悪い冗談だ。
「……ふふっ」
なんだか可笑しくなってきた。
不思議なめぐりあわせで、どうやらあり得ないことが起こってしまったらしい。
これはやはり、正さなければならない。
己れはそもそも、起こるであろう世界の歪みを正すようにと、大巫女さまから言われて宮仕えすることになった。
その己れが、別の歪みを生み出してどうするのだ?
ましろは思い、目の前にいる若者へ目を据えた。
「仁礼殿」
呼びかけてほほ笑む彼女は、どこか危うい。
仁礼は表情を消したまま、静かに主の想い人を見返した。
「守り刀を返して下さいな。それは、故郷から持ってきた大切なものなのです。我が真幸くあるようにとの祈りを込め、故郷の親族が贈ってくれたもの。失くす訳には参りません」
「その守り刀で、御方さまは何をするおつもりだったのですか?」
仁礼は静かに問う。
「先程の貴女さまは、真幸くあれとの願いを込めた大切な守り刀を血で穢すおつもりのようにしか、愚かな我には見えませんでした。なので護衛士としては、こちらを今すぐお返しする訳には参りません」
「違いますよ」
ましろは更に笑みを深くした。
「血で穢すのではありません。間違いを正すのです」
彼女はついに、うふふと声に出して笑う。
楽しげですらあった。
「歪みを正し、あるべき形へ戻すのです。その為に流す血は、禊の清水と同じでしょう。穢れはむしろ、今のおかしな状況。……さあ」
あどけないまでの仕草で、彼女は右手を差し出す。
「お返し下さいませ」
仁礼は刹那、身をすくめた。
ここのところ、彼女が正気の規を越えつつあることはわかっていたが(主が妻をひどく案じ、わざわざ筆頭護衛士である己れに彼女を護れと命じたのもその為だ)、彼が想定してたよりも、彼女の心の傷が深いこと、すでに正気を越えていたことを覚り、すくんだ。
しかし、それは刹那のこと。
訓練された彼は瞬時に最善の道を選び、動く。
ほんの一歩前に出、素早く相手の首筋へ、適切な力加減の手刀を落とす。
それで普通の者の意識は刈り取れる。
「お待ちよ、にいさん」
仁礼が身構え、一歩前に出るか出ないかの瞬間。
聞きなれない横柄な女の声がどこからともなく響き、彼の動きを止めた。
「今だけ意識を失わせ、命を守ったとしても。この娘の心は救われない。また隙をついて死のうとするよ」
「何者!」
仁礼が鋭く誰何するが、声の主はへらへらと笑う。
「なに、怪しい者じゃないよ。まあ、こんな変な現れ方をしたら怪しい者じゃないって言っても、説得力ってものがないけどねえ」
その言の葉が終わるか終わらないかのうちに、細い鳥の声が辺りに響き……すぐそこの庭木の枝に、翼も身体も嘴すらも真っ黒な、美しい燕が一羽、飛んできてとまった。
暗黒の燕はちょっと首を傾げると、さっきの横柄な女の声でしゃべり始めた。
「一の御子の筆頭護衛士・仁礼殿。お初にお目にかかる。妾は燕雀の頭・つばくろと呼ばれている者さ。そうしょっちゅう会う訳もないが、多少は今後も関わる機会があろうよ。以後よろしく」




