八 霜降⑤
「御方さま。ましろさま」
せりの声に、彼女は振り返る。
『さま』呼びをしなくてもいい、と何度かせりに言ったのだが、縹の御子の大切なお方に対してのけじめなのだと言われてしまうと、それ以上は無理を言えない。
ついこの間まで、せりと『なずな』の身分はほぼ同じだったが、縹の御子の想い者である『ましろ』となると、王族の方々に準ずる扱いをしなくてはならないのだと聞く。
それが慣習なのだとも。
その辺の感覚はなんとなく、彼女にもわかる。
彼女も宮中で、やんごとなき方々のそば近くで侍り、仕えてきたのだから。
が、わかるからといって腹の底から納得は出来ない。
己れは今、世間的には死んでいるとも生きているとも言えない、たとえるのなら木枯らしに吹かれてどこかへ行ってしまう、この庭木の枯れ葉のごとき者。
たまさか御子さまの寵愛を受けたとはいえ、その先に何があろう?
もし御子が、彼女を正式な妻にと考えたとしても、そもそも身分が足りない。
古くからの名家と言われているが、鶺鴒は所詮、片田舎の小さな氏族。
大白鳥神の末裔たるお方の連れ合いに相応しくはない。
どこかの貴顕の家へ養女として迎えられれば可能性も出て来るが、喜んで彼女を迎えてくれる家があるとは思えない。
仮に迎えてくれる家があったとしても、縹の御子がその家に、変な借りを作ってしまう結果になるのは目に見えている。
(我は……生きているだけで迷惑なのね)
最近思うのはそんなことばかりであった。
ほとんど癖になった仕草で、彼女は胸元を押える。
故郷を出る時、育ての親にして師匠である大巫女から餞別として渡された守り刀がそこにある。
女童として紅姫のそばに侍っていた時も、節会の舞姫として舞台に立っていた時も、そして魂呼びの儀を行っていた時も。
この守り刀は常に、彼女の懐にあった。
これだけが……鶺鴒の大姫であった時も宮中で『なずな』であった時も、そして数奇な運命の果てに『ましろ』という呼び名を賜って、御子の想い者となった時も。
変わらずそばにあった。
この守り刀だけは変わらない。
変わらないのが今、彼女の救いだった。
「御方さま。そろそろ日も傾き、冷えて参りました。蔀戸を下ろしましょう」
言いながら彼女はてきぱきと蔀を下ろし、灯りをともし始める。
「今日の夕餉は初物の蕪が手に入りましたので、きのこや銀杏を取り混ぜて蕪蒸しでも作りますね」
「そうですか、美味しそうですね。冷える宵に、あたたかいものは良いものです」
ほんのり笑んで、彼女はせりへ答えた。
今宵、縹の御子はいらっしゃらないと聞いている。
決まり事である三日夜の後、御子は大抵一日おきに丹雀の館へいらっしゃる。
夫となった御子が紅姫へどう言い訳しているのか、そもそも紅姫がお認めになっているのかどうか、『ましろ』にはわからない。
調べようと思えばすぐ調べられるであろうが、そんな気にはならない。
己れは所詮、現の者ではない。
その感覚は未だに彼女の中から抜けなかった。
また、名実ともにそうなるのも時間の問題、だとも思っている。
そんな不穏を腹に抱えながらも、ましろはおっとりと笑む。
このところ沈みがちな女主の笑顔に、せりはほっとしたように眉を開いた。
「きっと美味しく作ります、ご期待下さいませ!」
張り切ってそう言うと、せりはいそいそと厨へ向かった。
彼女が行ってしまうと、ましろは不意に真顔になる。
そして、蔀と共にせりが念入りに閉ざした戸をひとつ、音を立てることもなくそろりと開けた。
この時間帯、丹雀の館の従者たちはそれぞれ忙しくしている。
元々ここは必要最低限の者しか仕えていないので、皆、他のことに気を回す余裕などない。
夕刻が近付く頃は特に皆、忙しくなるもの。
だから……ちょうどいいのだ。
彼女は戸の隙間からするりと抜け出し、はだしのまま庭へ降り立つ。
辺りをよくよく見回し、ふっとひとつ息を吐き、懐から守り刀を取り出した。
鞘を払い、冷たく鋭い刃をつくづくと見る。
妙にきらきらしたまなざしで、しばらく彼女は刃に映る己れを見ていたが……、納得したようにうなずくと、両手でしっかりと柄を握り、刃先をのどへ向けた。




