八 霜降④
木枯らしが吹き始めた。
色づいた庭の木の葉も風に吹かれ、残りわずか。
御簾を上げ、寒々とした庭を今日もぼんやりと眺めているのは、かつて宮中で『なずな』という伺候名で呼ばれていた娘。
今は、夫となった縹の御子から『ましろ』という呼び名で呼ばれている。
「なずなは可愛らしい呼び名ですが、どうもやはり伺候名という印象が強い。わが妻ではなく女童のような気がしてしまうので、別の呼び名に変えたいのだが、貴女はどう思いますか?」
例の、身ごもったのではないかという騒ぎがあった直前くらいのとある日。
彼女は御子からそう尋ねられた。
「いえ……その辺りは御子さまの思し召しの通りに」
彼女には困惑しかなかった。
鶺鴒は古い氏族ではあるが、所詮は片田舎の家。
今思えば、王都の大きな商家よりもつつましく暮らしていた。
一族の総領娘とはいえ、雅やかな呼び名で呼ばれたり下の者に大切に傅いてもらうような、王都風のおっとりとした暮らしをしていた訳ではない。
「故郷の方ではどんな風に呼ばれていたのですか?」
澄んだ縹色の瞳でまっすぐ見つめながら問われたが、
「あの、特にこれという呼び名は。大抵は大姫とか姉姫と呼ばれておりました」
と、もごもごと彼女が答えると、御子は軽く笑う。
「なるほど。総領娘だった貴女は誰よりも年長なのが当然。大人たちを含め、貴女を『ねえさま』と呼んでいたような感じなのですね。しかし、まさか我まで貴女をねえさまとお呼びするのも……」
そこで御子は小首を傾げた後、こう言った。
「では……、我の勝手な印象だけですが。『ましろ』はどうでしょう?」
少し照れ臭そう彼は、ほんのりと頬を染めた。
「夏越しの宴での貴女は、正に邪気払いの神女のようでした。あれが貴女そのものではないとわかっていますが、貴女の中にある一番芯の部分だと思います。まっすぐで清らかで、朝日に輝く真白な雲のようでした」
あまりにも綺麗な言の葉の羅列に、彼女は絶句した。
「今後貴女を『ましろ』と呼ばせてもらいましょう」
『なずな』から『ましろ』と呼ばれるようになった彼女は今、端近に座って庭木を眺めている。
(ましろ……我にこれほど相応しくない呼び名があるかしら)
ため息をつきながら彼女は物思いする。
ここがまぎれもない現であり、己れが縹の御子の非公式の妻……すなわち妾とか囲われ者と呼ばれる存在だと、最近になってようやく彼女は自覚し始めた。
あの神事の宵に入った部屋は、現にはない。
館の奥にあるどん詰まりに、閂をさした両開きの扉だけが設えられていて……扉の向こうには壁しかない。
壁しかない、としか思えなかった。
動けるようになり、館の中をそぞろ歩いていて彼女は、例の神事に使ったらしい場所を見つけた。
見つけたが……扉はあったものの、部屋はなかった。
ないとしか思えない。
何度も外へ出て扉の後ろに建物がないか確認したが、扉のすぐ後ろは不思議なことに、木目も美しい壁が素っ気なくまっすぐあるのみ、だった。
(……あの宵以来、我は、存在そのものが現の者ではなくなったと思ったけれど)
現の者でなくなったからといって、何をやっても現に干渉することがないのではない。
いくら取るに足りない者・現では勘定に入らない者だとしても。
現実として、次代を担うやんごとない方の妻として世話になっている。
縹の御子の情けを受け、妻として遇されているということは、どう言い訳しても己れは、紅姫にとって不愉快な存在になり果てたということだ。
(紅姫の御為に、命を捨てるつもりだったのに)
今や、紅姫を不快にする存在になり果てた。
やんごとない身分の御子の思し召しに逆らえなかった、部分も皆無ではない。
しかし、初めて彼が丹雀の館へ彼女を訪ねてきた日、関係を無理強いするようなことはなかった。
むしろ彼は、これが今生の別れになるであろうと、そう覚悟していた様子がほの見えた。
(こうなったのは……我の意志)
どこかふわふわした頭ではあったものの、去ろうとしていた彼を追いかけたのは己れだ。
誰よりも彼女には、それがわかっている。
(我が仕えるべき神……この世で一番貴い姫御子さまの思い人を、結果として奪った)
ほとんど無意識の行動だった。
彼に愛しいと言われ、大きく心が揺らいだ。
憧れの貴公子からの愛の言の葉に、揺らがない娘もいないだろう。
……しかし。
本当にそれだけ、だったのだろうか?
紅姫へ、まったく昏い思いを持っていなかったとは……冷静になった今、言い切れない。
ただ生まれただけで、無条件に愛されるあの方のことが、うらやましいとか妬ましいとか、まったく思っていなかったとは言い切れない。
(我は、『ましろ』どころか『まくろ』とでも呼ばれる方が似合いだわ……)




