八 霜降②
縹の御子は不安そうにあたりを見回していたが、なずなを見出すと、ほっとしたように表情をゆるめた。
その刹那。
野分のような激しさで、なずなの中にあの日の出来事……冥府でのやり取りのあれこれが、怖ろしい実感を伴って一度に甦った。
「あ……」
訳もなく身体がガタガタと震えた。
あの日の冥府での出来事は、なずなにとって夢の中で夢を見ていたような感じである。
例えるなら、己れがこの館の賓客になっているのと同じくらい、現実味がないのが正直なところだった。
不可解な部分を含め、記憶は記憶として彼女の頭に漠然と残っていた。
が、彼女は『不可解な部分』を、貴い方々の、なずなにはわからない難しい事情のひとつとして無意識のうちに頭の隅へ追いやっていた。
思いがけないどころではない、あまりにも唐突すぎるなずなへ向けた縹の御子の愛の言の葉。
紅姫一筋の縹の御子が何故、あれほど熱を込めてなずなへ愛を語ったのか、彼女には理解しがたかった。
冥府で聞いた御子の愛の言の葉は、なずなの行く末と同じくらい茫漠としていて、なずなの行く末と同じくらい儚く頼りないものとしか感じられない。
信じる信じない以前の話だと。
しかし、今。
縹の御子の青ざめた顔、こちらを一心に見つめる縹色の瞳、泣きそうなあるいは怒っているような表情を見ると。
あの日のあの時のことが、夢でも幻でもなかったのだと理屈でなくわかってしまった。
「なずな?」
目に見えて顔色を変え、目に見えて様子の変わったなずなへ、御子は怪訝そうに呼びかけた。
俄かに怖ろしくなり、なずなは踵を返す。
「待ってくれ!」
逃げるなずなを御子は追う。
いつもいる部屋に逃げ込み、それでも追ってくる足音に怯えた彼女は、奥にある小さな塗り籠めに入り、扉を閉ざして内から閂をかけた。
「なずな! あ……いや。鶺鴒の姫。少しでいいので、我の話を聞いていただけませんか?」
なずなは部屋の中で身を縮め、嵐が過ぎ去るの待つようにじっとしていた。
「戸を開けて下さらなくてもかまいません。ただ聞いて下さい」
そこで一度大きく息を吐くと縹の御子は、閂をさした扉越しに静かに話し始めた。
「……まずは謝らせて下さい。我個人としてだけでなく、王族のひとりとしても。貴女に、多大な迷惑をかけてしまいました。今現在だけでなく、生涯にわたって貴女に多大な迷惑をかけることになってしまうことを、お詫びを申し上げます。この件を主導してきた伯父君……宮の太政大臣からも、貴女に詫びてほしいという言伝を持って参りました。危機を脱するにはこの道以外ないと信じていた故とはいえ、貴女の人生を捻じ曲げる結果になって申し訳ない、と。出来得る限りの償いを考えている、と」
「宮の……太政大臣から?」
思わず問いかけるなずなへ、縹の御子はうなずく。
「ええ。太政大臣は今、あの時の神事の影響で体調を崩してしまい、動けません。ですが、暖かくなる頃には元に戻るだろうから、どうぞその時まではこちらで、のんびりお過ごしになってほしい、とも」
「暖かくなる頃って……そんなにひどく、体調を崩されたのですか?」
なずなも神事で体調を崩したが、年を越して春になる頃まで動けないというのは相当ひどい。
さすがに心配になってきた。
「確かにひどい状態ですが。お命に別状はないということですから、ご安心下さい。臥せっていらっしゃっても意気軒昂で、政の指示もあれこれなさっています」
かすかに笑みを含んだ声で御子が言うので、なずなは少し眉を開いた。
しかしそこでふと、御子の声音が変わった。
「鶺鴒の姫。この先は我個人の詫びになります。本当なら聞くのも疎ましいでしょうが、どうかお聞きになって下さい」
なずなは思わず身を竦める。
「冥府で貴女に申し上げたこと。すべて我の本心です」
御子はそこで再び、大きな息を吐いた。
「初めてお会いした時に、この世ならざる不思議な声で貴女が我の運命だとの啓示を受けたこと。それ以来、貴女が気にかかっていたこと。気にかかっていた己れの心をごまかし続けていたにもかかわらず、夏越しの宴で舞う貴女を見て以来、ごまかし切れなくなったこと。貴女が死ぬと思った途端、一気に全身の血が下がる心地がし……貴女が死ぬくらいなら己れが死ぬ方がずっといい、と思い詰めるほど執着を持っております」
なずなは硬直したまま、ただただ、御子の言の葉を聞いていた。
「しかしそれは、あくまで我の身勝手な思いです。貴女にとって迷惑以外の何物でもないこともわかっています。この思いに応えてほしいとは思いませんが……せめて。我の気持ちだけは知っておいていただきたい、そう思って今日、ここへ参りました」
縹の御子は一度、強く唇をかんだ後に、笑みを作った。
「ご迷惑をかけ、本当に申し訳ない。貴女の……今後の幸せを祈ります。健やかに穏やかにこの先を生きていって下されば、それだけで我は幸せです」
扉越しにも、御子が姿勢を変えたらしい衣擦れの音が認められた。
「この先、何卒貴女の生涯が真幸くあらせられますよう、お祈り申し上げます」
つぶやくような言祝ぎが、泣いているようになずなには感ぜられた。
踵を返す衣擦れの音に、なずな自身よくわからないまま、閂を外して扉を開けた。
「御子さま!」
去りかけて立ち止まり、驚愕の表情で振り返る縹の御子へ、なずなは走り寄った。
「御子さま!」
なずな、と口の中で愛しい者の名を呼んだ御子は、そのまま彼女を強く抱きしめた。
縹の御子はその夜、月の宮へ帰ることはなかった。




