七 それぞれの朝、それぞれの思い⑦
「そんなことをおっしゃらないで下さい!」
思わず縹の御子は言う。
「死んだほうがましだなどと……我はもちろん、大王も父君も伯父君も、それにこの対屋で仕えてくれている者たちも皆、紅姫が生きていて下さること、そしてお元気になって下さることを、心から願っています!」
「そこはわかっております」
不吉なまでに静かに、紅姫はそう答えた。
「別に我は死にたいのではありません。ただ、貴方さまの最愛の命を奪ってまで、この先を生きるのが苦しいと申し上げているのです。この女のせいで我が最愛は死ぬことになったと、顔を見る度お思いになられるであろう方とこの先も共に生きるのは、あまりにも辛いではありませんか。たとえ……今は。我もかの方も貴方さまも、取りあえず死ぬことはないのだとしても。生死を共にしたいほど愛しい方の、邪魔にしかならない女なのですよ、我は」
「あ……その。そこにその、少々誤解があるのではないかと、我は思うのですが……」
はっきりしない口調で、御子はもごもごと弁明を始める。
「我が、あの生死の狭間であろう薄闇の草原へ行ったのは。そもそもは紅姫の御魂が冥府へ引かれ、儚くなってしまわれるのではないかという怖れ故のことでした。決して貴女に死なれたくないという、わがまま故と言い換えても良いかもしれません。あの草原で我は紅姫を見かけ、必死に追いかけたのですが……冥府へ引かれている者は誰であれ、生者の声に振り向かないようです。実は、我が母が亡くなる時も我は、あの草原へ行ったことがあります」
さすがに紅姫も、驚いたように目を見開いて御子を見た。
「流行り病に冒されていた母君とは結局お会いしないまま、今生で我は別れてしまいましたが。母君が亡くなる夜、我は、夢であの草原へ行き、冥府へ向かう母君とお会いしたのです。声を限りに呼ばい、力の限り走って追いかけたのですが、母君は振り返ることもなく、怖ろしい早足で草原の果てへと消えてしまわれました。あの時の母君の様子と……一昨日の夕刻アチラでお会いした紅姫の様子は、全く同じでした」
そこで一度大きく息を吐き、御子は、あらかじめ供されていたお茶で唇を湿らせた。
お茶はすでにぬるくなっていたが、かえって飲みやすかった。
「このままでは母君同様、紅姫も冥府へ召されてしまう、我はそう思うと怖ろしくてなりませんでした。半ば以上絶望しながらも、万にひとつの奇跡に賭け、必死に姫の名を呼んで追いかけました。心臓が破れるほど走って走って……それでも追いつけず泣きたくなった頃、鋭い声を放ちながら矢のようにまっすぐに飛ぶ、黒と白の小鳥を見たのです」
「それが……鶺鴒の姫だったのですか?」
紅姫の問いへ、縹の御子はうなずく。
「小鳥は瞬く間に姫に追いつくと、たちまち元の姿に戻って姫の肩を強くつかんだのが、遠くからでも確認出来ました。どうやったのかはわからないものの、なずなが紅姫を止めてくれたのだと、我は安堵しました。ですが……なずなが姫の身体から何かをむしり取り、それを自らの身体へまとい始めたのが見えた瞬間。音を立てて血の気が引きました。アレが不吉な存在であること、アレをまとった者は死ぬのだということが、理屈を超えてわかりました。そんな莫迦な、たとえ紅姫が生き残っても誰かが代わりに死ぬなんていけない!そう思った瞬間、我は白鳥へと姿を変えておりました。そして……間一髪で。冥府の底へ沈み切る前に、なずなを引き留めることが出来たのです」
紅姫は美しく笑み、優しくうなずいた。
御子は、紅姫の笑みが美しければ美しいほど、かの方がどこか遠くへ離れてゆくような焦燥にかられた。
が、どうすればそれを食い止められるのかわからない。
つばを飲み込み、話を続けるしかなかった。
「そしてアチラで冥府の女神にお会いして……、様々な偶然が重なった結果、我となずなで『業を分け合って持つ』という形で、一時的に無効にすることが出来ました。我が死ぬ時にこの業も一緒に冥府へ沈むそうですから、実質無害化されたと考えられます。誰も死なずに寿命をまっとう出来ることになりましたので、どうぞご安心下さいませ」
紅姫はうなずき、もう一度美しくほほ笑む。
「お疲れさまでした、縹の御子。貴方さまのお陰で、王族に降りかかる厄介な業が無害化されたのです。日輪の君の総領娘として、お礼を申し上げます」
「……紅姫?」
『日輪の君の総領娘』という言の葉のよそよそしさに、御子は、全身が冷たくなる心地がした。
紅姫は頬を引き、真顔になってこう言った。
「お話はよくわかりました。どうぞ心置きなく愛しい方の許へ向かって下さいませ。我らは事実上、許婚ではありますが、心とお務めは違いましょう。我が成人し、裳着を済ませるまでの短い間になりましょうが、かの方を一生分、いたわって差し上げて下さい。そして我の裳着が済み次第、お務めとして契りを交わしにおいで下さい。貴方さまのご気性から考えると、愛してもいない女の相手はさぞお辛いでしょうが、辛いという意味ではお互いさま……」
「紅姫!」
思わず御子は叫んだ。
「紅姫、何という悲しいことを仰せられる!貴女との婚姻を、お務めだなどと思ったことはありません!」
「縹の御子!」
紅姫は本日初めて、強い声で叫んだ。
「わかっております、貴方さまが我を大事に思って下さっていることは!」
縹の御子が怯んだように口を閉ざした姿を見て、紅姫は大きく息を吐いた後、目を伏せた。
「……でもそれは。身内を大事に思う気持ちであらっしゃいましょう? 妹へ、従妹へ向けるお気持ちであり、なずなへ向ける気持ちとは違う筈です。我らの父君と、我の母君は。決して仲がお悪くはありません。しかし伴侶として愛し合っているのではないということくらい、我も察しております。あの二方は……互いに心を殺し、お務めとして妹背になられた。我らも……否。貴方さまも、そうなるのだとわかっております」
「……違う」
御子の否定の言の葉は、自分でも思いがけないくらい弱かった。
あきらめ笑いに似た淡い笑みを口許に浮かべ、紅姫は言う。
「少しばかり疲れて参りました。申し訳ありませんが、今日のところはお帰りいただけますか?」
もはや何も言えなかった。
深く腰を折り、失礼いたしますと言って立ち去るしか、御子に出来ることはなかった。




