一 うるわしき春の日に④
その時だ。
かすかな衣擦れの音と共に大王へといざり寄る女房が、ささやき声で急な来客を告げた。
それと前後して御簾ごしに感じられる気配は、渡殿に佇む幾人かの人影。
「宮の太政大臣。いつもながら急ですね」
ややあきれの混じる大王の声に、笑む気配が返ってくる。
「いつもながらで恐れ入ります、大王。実は明日の朝議に諮る前に、確認したき事柄がございまして。失礼ながら参上いたしました」
飄々と答えるのは、宮の太政大臣と呼ばれている方の声だ。
大王の異腹兄であり、御子の父君と同腹の兄にあたる方でもある。
「お入りなさい。ちょうど縹の御子もいらっしゃっていますよ」
「おや、それは久方ぶり。息災であらせられましたかな」
嬉しそうに言いながら、軽い足音と衣擦れの音が近付いてきた。
几帳の陰から現れたのは、春らしい若草襲の着慣れた狩衣に烏帽子をかぶった、ややふくよかな壮年の男。
鷹を思わせる茶色の髪、王族の濃い血を思わせる炯々たる黄金の瞳の持ち主でいらっしゃる。
下座に下がろうと腰を浮かす御子を、かの方は手にした扇で制し、こだわりなく端近にお座りになる。
「初春以来になりますか、縹の御子。男子三日会わざれば刮目して見よなどと言いますが、この三ヶ月でより一層、御子は男ぶりをあげてすっきりなさいましたな」
「あ、いえ。とんでもないことです、伯父君様」
もごもごとそう答え、御子は軽く頭を下げる。
実は御子、この伯父君がちょっと苦手だ。
いや悪い方ではない。
むしろ割と最近まで、御子はこの方を父親のように思って慕っていた。
色好みのふにゃふにゃした実の父君より余程尊敬できる方で、精神的な意味で『父』たる方だと思って敬ってもいた。
事実、政においては飾りに過ぎない実の父君と違い、大王の補佐として実際のあれこれを仕切っているのはこの方だ。
その上『宮』――つまり王族の祖神『大白鳥神』の御魂の器になり得る素質をお持ちでもある。
幼い頃、なぜこれほどの方が臣籍に降って大王にお仕えしているのだろうと御子は思っていた。
血筋・素質・能力共に、御子の父君より余程『月影の君』――大王の対なる方・夫たり得る方ではないかと。
父君にしても、大王の夫君などという重責に息苦しい思いをしなくて済むのではないかと、子供心にも思っていた。
「このところ、宮城内でもちらほら噂を耳にいたします。このところの縹の御子は、さながら秋に凛と咲く竜胆の花のごとし……と。老若男女問わず、かの方の涼やかなそのお姿に憧れを持つのだとも」
太政大臣は言い、ふと悪戯めいた目で笑う。
「次の初春には御子も成人。出仕なさるようになられれば、雅びな誘いも多くなって参りましょう。そちら方面でお困りごとがございますれば、この伯父にご相談下さい。我は決して粋でも色好みでもありませんがこれでも年の功、多少の経験はございます。それに色の道も一つではございません、後学の為にもう一つの道についても……」
「伯父君様」
無礼を承知で、思わず御子はさえぎる。
「万が一にも困った場合は、きっとお世話になります。でも今は必要ありませんので」
木で鼻をくくったような答え、『宮』たる年長の方に対して無礼なのは御子も承知している。
が、今まで何度かこの方とこのやり取りをしていて、うんざりしているのが本音だった。
血筋・素質・能力に秀でたこの方が、月影の君になれない唯一の理由。
それが、かの方が本当の意味で『女を愛せない』質だからだと知ったのは、ここ一年ほど。
それ故に『王族』の濃い血を残すのが責務のひとつである月影の君になれない……否、ならないよう辞退する意味で臣籍に降ったと。
去年の今時分、何かの話の流れから太政大臣は縹の御子へ、飄々とそう明かした。
大人たちの間では公然の秘密だったようだが、御子の世代の子供たちは知らない話なので驚いた。
太政大臣が公的にも私的にも妻を持っていないらしいこと、『宮』であるにもかかわらず王都の外れにこぢんまりした屋敷を構えて気ままに暮らしていること、そしてそれらが誰からも――大王からさえも――黙認されている不思議を、御子はようやく納得した。
時間が経ってこだわりが薄れ、あらゆる生々しい傷痕も乾いてしまっているのだろうか。
この時の太政大臣の語り口調は、無残なまでに淡々としていた。
「という訳ですので。我は、もうひとつの道についても御子に手ほどき出来ますよ」
話の流れが急に変わり、突然そんなことを言われた御子は一瞬意味がわからず、ぼんやり伯父君の顔を眺めた。
「なんでも経験です、知らないよりは知っている方がいい。でないと我のように御息所を持った後で……そういうのは、お互いに不幸です」
太政大臣の瞳がふと、昏く陰った。
「幼い頃から紅姫一筋の御子には関係のないことかもしれません。ですが、女からの誘いには用心できても男からの誘いにはうっかり乗ってしまうかもしれませんからね、知らないというのは恐ろしいことです。……無理にとは申しませんが、お心の隅に留め置いて下さい」
どこまで本気なのかわからないが、かの方は真顔でそんなことを言い、御子を激しく困惑させた。
ひょっとするとそのおぼこな反応が、かの方は面白かったのかもしれない。
以来、かの方は御子の顔を見る度に、時には真面目、時には冗談まじりに、そんな危ういことを言うようになった。
伯父君の戯言を一から十まで本気にしてはいないが、縹の御子はがっかりしていた。
何故に当代は、身内の大人特に男に、素直に尊敬申し上げる方がいないのだろうと思うと、情なくてため息しか出ない。