五 ゆく鳥・追う鳥⑩
「ちょ……ちょいと! 何やってんだい御子さま! 惚れた女たちを救う為、己れが犠牲になるってのかい?」
さすがに慌てたような声でつばくろが叫ぶ。
なずなも慌てて縹の御子の手を止めようとするが、たとえ荒事に疎い貴人であっても一歳年上の少年の力は強く、なずなには止められなかった。
「御子さま!御子さまお止しになって下さいませ!」
ほとんど叫ぶようになずなは言い、次々と黒い紐を引き剥がす御子の身体を、渾身の力で押した。
思わずよろめいた御子は、その拍子にきつく握りしめていた右手を離してしまった。
「あ!」
つばくろの悲鳴にも似た叫び声が、広い広い闇に響き……その後、恐ろしいまでの静寂が残った。
どさり。
鈍い音と、したたかに打った背中の痛み。
荒い息を吐きながら、宮の太政大臣は半身を起こす。
丹雀の館の私室のひとつに、突然彼は、さながら投げ出されるように現れた。
(……なんということ!)
すさまじい焦燥に奥歯を噛みしめながら、太政大臣は立ち上がる。
が、激しい眩暈に襲われて思わず膝をついてしまった。
「宮さま!」
気配を察した筆頭護衛士の佐嘉希がすぐさま寄ってきて、よろめく彼を支えた。
「佐嘉希……」
くらくらと揺れる視界の中、ため息まじりに太政大臣は、長い付き合いのある気心知れた筆頭護衛士の伺候名を呼ぶ。
「最悪の事態だ。このままでは……次代を継ぐ子がいなくなる!」
「ど、どういうことでしょうか?」
大抵のことには動じない佐嘉希ですら、やや狼狽えて問う。
ぐっしょりと汗にまみれた顔で、大臣は佐嘉希を見上げる。
「魂呼びの儀へ、縹の御子が関わってこられた」
「は?」
意味がわからない、という目をする佐嘉希へ、深い息を吐きながら太政大臣は、ややうつむいて簡単に説明する。
「手筈の通り、燕雀の元締めと鶺鴒の総領娘、我の三人で儀を行った」
佐嘉希はうなずく。
「冥府へ向かおうとしていた紅姫を追い、鶺鴒の姫が業の紐を引き剥がしてその身に受け入れ……そこまでは手筈通りだった。しかし紅姫の御魂を追い、縹の御子が狭間へ迷い込んでいらっしゃった。そして……業を背負ってくれた鶺鴒の姫と共に、冥府へ墜ちた。まったくの想定外だ。混乱している紅姫の御魂を連れ、どうにか此岸へ戻ってはきたが。紅姫の魂そのものはコチラへ引き留めたものの、おそらく、正気に返ってはいらっしゃらないだろう」
太政大臣はもう一度、深く深く息を吐く。
「そもそも我らは縹の御子の、紅姫への思いを軽く考えてすぎていた。かの方の、なずな……鶺鴒の姫への執着も、軽く考えすぎていた」
よろめきながらも太政大臣は立ち上がる。
「一度宮城へ戻る。馬の用意を。どちらにせよ、燕雀の側からはもうたどれないのだ。ならば、大白鳥神の側からアチラへの道をたどるしか、ない」
え?、と佐嘉希は刹那、驚愕したように目を見張り、小さく口の中でそうつぶやいたが、すぐ彼は頬を引いて軽く頭を下げ、馬の用意をする為にその場から去った。
(間に合うか……否。間に合わせる!)
己れの頬を打ち、太政大臣は気合を入れる。
(必ず間に合わせる。この命に代えても!)




