一 うるわしき春の日に③
縹の御子の一行は、大王がお住まいの主殿へと通された。
訪問の先触れも出していたし、そもそも大王御自身のお召し、待たされることはなかった。
「よくお越しになりましたね、縹の御子」
大王は着慣れた菫の襲のお召し物で脇几にもたれていらっしゃった。
母君様譲りの、こっくりとした色合いの茶色の髪をゆるく束ねたくつろいだお姿で、やわらかい笑みを口許に浮かべて御子をご覧になった。
その刹那、いかにも王族の血を思わせる金色に輝く大王の瞳に影が差した。
いつもそうだ。
大王はお優しいし、御子を甥として芯から可愛がってくださっている。
だが、ご自身の夫である月影の君の『初恋にして最愛』と呼ばれている亡き母・縹の御息所の面差しを濃く受け継いだ御子に、複雑なものを抱えていらっしゃるのは否めまい。
その辺のこと察したのは最近だが、ふとした瞬間に昏くなる、いつもはお優しい伯母上の瞳の陰りには、幼い頃から気付いていた。
そしてこの陰りはおそらく、自分にはどうにも出来ないのだということも。
「ご無沙汰をいたしております、大王。御尊顔を拝し、恐悦至極でございます」
御子は深く頭を下げて型通りのあいさつをしたのだが、ほほほと芯から楽しそうな笑声が響いてきたので怪訝に思った。
「あらあら、ずいぶんと他人行儀な。貴方からそんな堅苦しいあいさつがあるとは思っておりませんでしたよ、御子。いつも通り『お久しぶりです、伯母君様』でいいのでは?」
「あ、いえ、しかし」
そろりと頭を上げ、御子はきまり悪げに言葉を紡ぐ。
「我も翌年には成人として『あらたまごと』へ参する身。いつまでも子供のようではいけないと、このところ思うようになりました故に」
『あらたまごと』は、王族の成人のみで行われる年明けの儀式。
新しい年の恙なきを祈念し、この先一年の吉凶を占う神事でもある。
大王ならびに王族の方々にとって一年で一番大切な神事であり、王国にとって大切な儀式でもある。
来年の初春で数え十五になられる縹の御子は、初めて『あらたまごと』へ参する予定である。
この『あらたまごと』は王族の血を濃くひく縹の御子にとって単に成人の証であるだけでなく、今後の彼の行く末に深い影響を及ぼす神事でもあった。
大王の瞳がやわらかくゆるむ。
「そうでしたね、大きくなられました。母君を慕って泣いていた幼子が、こんなに立派になられて。伯母としても義理の母としても大変嬉しく思います。縹の御息所にも……今の貴方をお見せしたかったですね」
御子は息を呑む。
大王の口から母の名が出てくることなど、今までほとんどなかった。
御子自身も出来るだけ、大王の前で母の名を出さずにきた。
何か言われた訳ではないが、そうする方がいいと本能的に察していた。
だから、まさか大王ご自身の口から母の名が出てくるとは御子も思っていなかった。
大王は目許から笑みを消す。
「縹の御子。貴方がこの伯母が思う以上に成人の自覚を持とうとなさっているのならば。この話も受け入れて下さいましょう。成人なさった暁には、貴方は慣習に従い、宮城内にある離宮のひとつで独立なさいます。その際、離宮の女主人として貴方の御息所となられる方を……」
「伯母君様」
御子はわざと、『大王』ではなく身内としての呼び名である『伯母君』で、至尊の君へと呼びかけた。
「何度か申し上げましたが。我に御息所は不要です。我は幼き頃より、紅姫ただおひとりを思い、紅姫おひとりを大切にして生きてゆく所存。そんな我に、ただ慣習だからと愛されることもなく添わされる何処かの姫も憐れです。ですからこの件はご容赦下さいますよう、何卒ご理解を賜りたく存じます」
何があっても曲げぬと言いたげな、頑ななまでに生真面目な縹色の瞳へ、大王は、呆れたような諦めたような大息をひとつおつきになって苦笑いをなさった。
「頑固ですね。大王としては困るのですが……紅姫の母としては。やはり嬉しく思います。そんな風に一途に思われたいと、ひとりの女としてはやはり思います故。ほんに、あの雅男たる父君の息子とも思えぬ……いえ。あの方の息子故、の、一途さなのでしょうか?」
最後はひとりごちるような大王の言葉へ、どう返して良いのかわからず御子は言葉を失った。
大王はハッとしたように頬を引き、冷たいほど美しい笑みを作る。
「貴方のお気持ちはお気持ちとして。これは一個人の気持ちではどうともしがたい話なのですよ、縹の御子」
唇をかむ御子へ、今度は温かみのあるほほ笑みに変えて大王はこうおっしゃった。
「今日のところはまあ、それはそれといたしましょう。貴方のお気持ちはよくわかりました。貴方の変わりないお心を知れば、紅姫もきっと機嫌を直すでしょう」
御子は思わず目を見張る。
思いがけないお言葉だ。
紅姫が、機嫌を直す?
ということは、今はかなり御機嫌が悪いということになる。
縹の御子は内心、首をひねった。
紅姫はいつも優しくほほ笑んでいる。
少なくとも、御子にとってはその印象が強い。
生まれつきお身体が弱く寝付くことも多いながら、わがままを言って側付きを困らせるようなこともしない方だ。
朗らかでお可愛らしく、それでいて臈たけた、いかにも王族の姫らしいあの方がご機嫌を悪くしている、それも母君である大王が気にかけるほどに。
あり得ない、と、御子は胸でひとりごちた。
「これからあの子を訪ね、なだめてやって下さいますか?」
少し困ったような声音でそう言う大王のお言葉へ、縹の御子は承知いたしましたと答えた。