五 ゆく鳥・追う鳥⑨
なずなは思わず手を止め、ポカンと縹の御子の顔を見上げた。
刹那、御子は狼狽えたように瞳を揺らせたが、腹をくくったらしい。
彼は不意に、強いまなざしでまっすぐ、なずなを見た。
「これは、我が年老いて冥府へ召されるまで、心の奥底に秘め続けるつもりだった。でもこのままではなずなが死んでしまうという今、秘め続ける意味はない。我は……なずな。いや。鶺鴒の総領娘よ」
なずなはただただ、御子の顔を見つめた。
意味がわからない。
硬直したまま彼を見上げる以外、なずなには何も出来なかった。
御子は続ける。
「貴女と初めて出会った時、我は、紅姫と初めて出会った時と同じ、この世ならぬ者の声を聴いたのだ。
『この方は特別な方』
『そして対なる方』
『次の世の礎たる方』
……と。そんな訳はない、思い違いだ気のせいだと、何度も思い直そうとした。だがどうしても貴女の姿が、我の脳裏から消えることはなかった。一体どういうことなのかと悩んだが、それでも気のせいだと思い続けた。……思い続けようとした」
そこで御子は、ひとつ、大きく息をついた。
「『夏越しの宴』で神楽を舞った、貴女の姿を見て。我は、己れの気持ちに気付かされた。我は、貴女に強く惹かれている。あの宴以来、貴女をこの腕の中に抱え込み、独り占めしていたいという狂おしい欲を自覚するようになった。紅姫に対して持つ、強くて大きいながらも穏やかな思いとは全く違う、恥ずかしさや後ろめたさの伴う思い。どこか狂ったこの思い、これがおそらく『恋』というものなのだろう。初めて恋した貴女を……我は、死なせたくないのだ!」
まったく意味がわからず、なずなは硬直したまま御子を見上げた。
この方は何を言っているのだろう、と彼女は、胸の中でひどく冷静にひとりごちた。
「紅姫は確かに、我の運命と言える方。そもそも我は、病にむしばまれて身罷ろうとしていたかの方の御魂を追い、生者と死者の狭間たる薄闇の草原へ迷い込んだのだ。そこにまさか、紅姫の背負う忌まわしい業を肩代わりする為、なずなが……鶺鴒の総領娘がいるとは、夢にも思わなかった」
「どちらもあんたの運命の女ってことなのかい?御子さま」
ややあきれたように、つばくろが御子へ問いかける。
瞬間的に迷ったようだが、縹の御子はうなずく。
「そうだ……そうとしか思えない。我には二人ともが必要なのだ。どちらへも愛情を持っている。万が一、どちらか片方を亡くしたらと思うと……、正気が保てる自信なぞ、我にはない。……燕雀の頭にして、この場の最高神・冥府を司る女神『くろ』のみことよ。何卒お知恵をお貸し下さい。二人とも生かす、皆が幸せになる道をお示し下さいませ!」
「そんな都合のいい道なぞあるか」
鼻を鳴らすようにつばくろは答える。
「あれば、あんたの伯父君をはじめ少なからぬ貴い方々が、ここまで苦労はしないというものさ。あらかじめ言っておくけど、この業を妾に押し付けようとか都合のいいことを考えるんじゃないよ。死の世界を司る者とはいえ、死へと引きずり込もうとする意志の化身の相手は手に余る。つまり、関われば今生の妾は死ぬ。妾が死ねば今の世代の燕雀をまとめる者がいなくなる。すなわち均衡が崩れて世界は歪む。……燕雀がどういうものかおわかりならば、我の言うこと、おわかりになりますよね?」
「わ、かって、いる……わかっている、が……」
泣いているとしか思えない声で御子は呟き……何を思ったのか突然彼は、なずなの身体に絡んでいる黒い影に手を伸ばした。
「な……何を、御子さま!」
硬直していたなずなはそこで我に返り、一拍遅れて御子の手を抑えようと右手を伸ばした。
しかし間に合わない。
なずなの首筋に絡んでいたかなり長い紐状の影が、ぶちぶちと鈍い音を立てて離れ……瞬く間に御子のてのひらへ絡みついた。




