五 ゆく鳥・追う鳥⑧
なずなは、青ざめて絶句する縹の御子の横顔をそっと見た。
彼に出来るはずがない。
この方は心根がお優しい。
たとえ相手が、取るに足らない、顔見知り程度の女童の一人だとしても。
手を離せば死ぬとわかっている者を、見捨てることなどなさらないだろう。
(でも……)
ずっとこうしている訳にもいかない。
大体つばくろは、『今ならまだ間に合う』と言った。
ということは、いつか間に合わなくなるということだ。
「縹の御子さま」
なずなの呼びかける声に、御子は鋭く振り向く。
額に汗がにじんでいるのか、ほつれた前髪がべったりと張り付いていた。
人間なんだ、と、不意になずなは思う。
この方は人間であり、同世代の少年。
悩んだり迷ったりする、どこにでもいる少年なのだ、と。
こんな間近で御子を見たことなど、もちろんなずなにはなかった。
紅姫に寄り添ってもの柔らかな笑みを浮かべている、さながら絵物語に出てくる貴公子のような彼しか知らない。
たとえすぐそこにいらっしゃっても、雲の上の存在であるようにしか、なずなには思えなかった。
もっと言えば、生きた人間というよりも、女童たちの憧れが凝って生み出された『貴公子の人形』のような印象が強い。
彼がきつく握りしめている、左の二の腕が痛い。
痛いが、あたたかくて心地よくもある。
黒い影に吸われたなずなの寿命が、御子から流れてくる霊力……、否、精気によって補われていることを、卒然と気付く。
(ああ、いけない)
このまま彼がここにいて、なずなの腕をつかんでいれば。
彼の精気を吸い尽くしてしまう。
「手を、お放し下さいませ。そしてアチラ……生者の住むところへ、今すぐお戻りになって下さい」
なずなは目を伏せる。
「もし……紅姫さまが。我の命を犠牲にしたと、心を傷め、悔やんでお泣きになるのだとしたら。あの方をお慰めできるのは、縹の御子さま以外いらっしゃらないのではありませんか?」
ひゅっと息を吞む御子の瞳が、激しく揺らいだ。
「どうぞお伝えになって下さいませ。なずなは、心から満足して冥府へ行ったのだと。……紅姫さまは王国の宝。その方のお命をお救い出来るのならば、臣下の一人としてこれ以上の誉れはございません。何卒我へ、その誉れをお与え下さいませ」
「縹の御子。なずなさんの言う通りだ」
彼女にしては珍しい、真摯な声音でつばくろが口をはさんだ。
「紅姫にまとわりついていたこの黒い影。これは、永い年月に王族という特殊な血筋の上へ折り重なった、いわゆる『業』のようなものでね。始祖大御神が直に望んだ、神生みの我々……、『くろ』『いろなし』『おおしらとり』の三柱であっても、引きはがすことも散らすことも容易ではないという、厄介なモノでね。並み以上の巫覡が器になってこの業を受け入れ、諸共に冥府へ沈むのが最も効率よくコレを消す方法なのだよ」
御子は唇をかみ、つばくろを睨む。
睨んではいるが、この状況がどうにもならないことは肌で察している様子だ。
縹の御子自身も並み以上の巫覡の素質を持ち、『あらたまごと』へ参ずる為の修行を重ねていた昨今。
今、なずなにまとわりついている黒い影とすぐ近くで接し、つばくろの言の葉が真実だとわかっていた。
しかし。
「……嫌だ」
絞り出すようにそう言うと、御子は、さらに強くなずなの腕を握った。
「嫌だ。そんなことをしたら、なずなは死んでしまうではないか」
「誰かの命一人分がいるのだよ、この業を穏便に消すには」
ため息まじりにつばくろは言う。
「仮に今なずなさんからコレを剥がして、棄てようものなら。瞬きの間に紅姫へ返る。そもそもコレは紅姫が背負っていた業だからね、引き剥がせば元々の宿主の許へ戻るってもんさ。コレが紅姫へ返れば当然、紅姫は生きていられない。……なずなさんか紅姫か。どちらかを選ばなくてはならない。残酷だけど、そういうことなんだよ」
ほとんど優しいといえる口調で、噛んで含めるようにそう言うつばくろ。
御子は、駄々をこねる幼児のように頭を振る。
「嫌だ、そんなの嫌だ」
「御子さま」
たまりかね、なずなは御子がつかんでいる己れの二の腕へ右手を添える。
御子の手の甲にかすかに触れ、そこが燃えるように熱いことになずなは息を呑んだ。
御子ご自身の体が熱いのではなく、黒い影のせいでなずなの身体はすでに死にかけ、冷たくなっているのかもしれないと、一瞬の後、思う。
(ああ……この方は生きている)
そして今後も生き続ける。
そうでなくてはならない。
顔見知りの女童に余計な情けをかけて命も危ぶまれる、こんなことは早く終わらせなくてはならない。
胸の隅に小さくわだかまる、寂しさや悲しみはあるものの。
なずなは笑みを作り、畏れ多いと思いつつも、燃えるような御子の指へと手を伸ばした。
彼の指を一本一本、引き剥がす為に。
「よせ!」
なずなが何をしているのか察すると、御子はうろたえたように叫んだ。
「莫迦!よせ!そんなことをしたらお前は死ぬだろう?」
「これでいいのです」
こわばり始めた頬で精いっぱい笑み、なずなは言う。
「紅姫と御子さまは、我々女童たち憧れの恋人同士なのです。生まれた時からの運命の恋人同士に悲恋は似合いません。どうぞお二人で……幸せになって下さいませ。冥府の底で、なずなもお二人の幸せをお祈りいたします」
「……嫌だ。この莫迦者、止めよ!紅姫は確かに大切な方だ、だが、しかし……」
涙の浮いた目で、縹の御子は血を吐くように言の葉を絞り出す。
「お前も……お前も。我にとって、大切なのだ!」




