五 ゆく鳥・追う鳥⑥
驚いてなずなが顔を上げると、すぐ目の前に縹の御子の顔があった。
恐ろしいばかりに吊り上がった目で、彼はなずなを睨んでいる。
こんな顔の御子を、なずなは初めて見た。
「この、大莫迦者!」
もう一度御子は叫ぶ。
「お前は何を考えているのだ! 紅姫の身体から忌まわしい呪いを取り除くだけならまだしも、自らの身体へ移すなど!」
思いもかけない御子の激しい怒りに、なずなは一瞬、身を竦ませた。
彼が何故そこまで怒っているのか、よく理解出来なかった。
「誰が……誰がお前を犠牲にしてまで、紅姫を救いたいと思う? 誰かを犠牲に生き延びて、あの方が喜ぶと思うのか? もしそう思うのだとしたら、お前は紅姫を見損なっている!」
「も、申し訳ありません。お許しくださいませ」
激しい怒りに呑まれたように、なずなは謝罪していた。
胸の隅で理不尽だと思ったが、御子の怒りに震えるような恐れを感じ、謝るしかなかった。
縹の御子はそこで、軽く目を閉じてひとつ深い息を落とした。
「……いや、すまない。お前が謝る必要はない、激して悪かった」
目を開けた時には、御子は、いつもの御子に近くなっていた。
「だが、我の言いたいことは変わらない。お前を身代わりに紅姫を救っても、紅姫がお喜びになるとは思わないぞ。あの方はそんな方ではない」
きっぱりとそう言う御子の澄んだ縹色の瞳に、なずなはひどく寂しくなった。
御子は完全に、紅姫を理解していらっしゃる。
それは『愛している』とおそらく同義。
でもなずなに、果たしてそこまで思ってくれる人がいるのだろうか?
鶺鴒の里の身内の誰彼、師であり大伯母である社の大巫女も、確かになずなを気にかけ、愛情を持ってくれているだろう。
でもそれは、なずな個人への深い思いというよりも身内の者へなら誰でも持つであろう、馴れ合いにも似た思い。
御子が紅姫へ向ける思いは、ここで死んでいくと決まっている自分が短い生涯の中で誰も向けてはくれなかった、強くてまっすぐな思いだ。
「それは……そうだと我も思います、御子さま」
近すぎる御子から無意識で離れるように、なずなは腕で、御子の身体を軽く押しやる。
「ですが、これしか方法はないと。我が先程、紅姫さまから取り除いた病の元と言える黒い影は、身代わりとなる形代役の巫覡なしでは、到底払えないのだそうです。我が身代わりにならないと、紅姫さまは冥府に召されてしまいます」
「……誰がそう言ったのだ?」
怒りを押し殺したような低い声で御子は問う。
「まずは宮の太政大臣からそう説明を受けました。次に、このきわどい魂呼びの儀を仕切る燕雀の元締めと呼ばれている巫覡からも、そう聞きました」
御子は苦い顔で歯噛みした。
「伯父君さまに燕雀……、か。なるほど。なずなが大人たちにうまく騙された可能性も否定できないが、それしか道がなかった可能性も高いな。なずなが紅姫のそばへ上がった本当の理由がその辺りだとすれば、これまでの辻褄も合うような……」
ぶつぶつとそんなことを呟いていたが、御子はハッとしたのか顔を上げる。
「だからといって、お前が犠牲になることはない。戻ろう!」
「も、戻るって。どうやって戻るのでしょうか?」
困惑気味に言い、なずなは辺りを見渡した。
闇。
暗黒の、漆黒の、ただひたすらの闇。
であるにもかかわらず、御子のお姿……着慣れて柔らかくなった青鈍の普段着も、童子結いの真白の髪に結ばれた蘇芳の組み紐も、何もかもはっきり見えた。
己れが『節会の舞姫』の衣装を身に着けているらしいのも、これまたはっきりとなずなには認められた。
このどこまでも黒い、暗い闇の中、御子となずなだけが鮮やかに存在しているらしい。
「落ちてきたのだから登ればいい。さっきのように我は白鳥、なずなは鶺鴒に変じて、上へ向かえば……」
「残念だけどそう簡単な話じゃないよ、縹の御子さま」
唐突に低い声が辺りに響く。
同時に御子となずなの前へ、白い神事の衣装に黒い肩巾を無造作にひっかけた、年増の女が現れた。
闇と同じ黒い髪、大きく開かれた双眸も黒。
女はゆるく腕を組み、二人の少年少女を睨むように見た。
「大体、どっちが上でどっちが下なのか、本当にわかるのかい?」




