五 ゆく鳥・追う鳥③
一方、丹雀の館。
つばくろに続いて両開きの扉をくぐったなずなは、不意に響く澄んだ鈴の音に、ハッと身を竦めた。
全身を覆う、何とも言えない違和感。
違和感の中、もう一歩踏み出した瞬間に再び鈴の音が響き、なずなは思わず足元を見る。
(え?)
くるぶしに結われた銀の鈴。
『夏越しの宴』の『節会の舞姫』の装いだ。
驚きで足取りが乱れた瞬間、鈴の音も乱れる。
「落ち着いて。ここから先は想念が支配する場なんだ」
つばくろの声。
いつの間にか青く輝く灯火を手にしているつばくろの双眸が、射貫くようにまっすぐ、なずなへ向かっていた。
灯火を手に持ち、背筋を伸ばして立っているつばくろは、正に『この場の主』とでもいうたたずまい。
小さな彼女の身体がとてつもなく大きく、そして頼りがいのあるように感じられた。
「姫御子さまの病を除くあんたには、疫病を払う節会の舞姫の装いが相応しいとあんた自身の魂とこの場が判断したようだね。……では、儀を進める為あんたには、節会の舞を舞ってもらおう」
「は、い?」
意味がよくわからず、なずなは首を傾げる。
つばくろはやや苦みのある笑みを口許に含んだ。
「この儀では、直接姫御子さまの魂呼びを行う形代役の巫覡によって、儀で行う具体的な方法が決まるのさ。そもそも現の理屈など通じないのが、夢や死の世界でね。心が選んだものが瞬きのうちに具現する、便利な、でもそれだからこそ心惹かれるものに抗うのがむつかしい『場』でね。光の中では縮こまっている己れの昏さや欲が伸び伸び動き回るのが、『くろ』と『いろなし』が司る世界なのさ……おや、怖いのかい?」
やや意地悪く問われ、なずなは一瞬、絶句した。
「は…い、そう…ですね。もしかすると我は、土壇場で己れの命を惜しむかもしれない、と思ってしまいました」
弱音など吐きたくなかったが、なずなは、己れでも驚くほど素直に自分の中の恐れを言の葉にしていた。
つばくろに嘘は通用しないくらい、何も言われなくても肌で理解出来るし……何故か、彼女にならそう言ってもかまわないという、ある種の信頼も感じられたのだ。
つばくろはほのかに笑む。
「正しく恐れる者は、まあ大丈夫なもんだよ。自信もないくせに虚勢を張る奴より、よっぽど肝が据わっているもんさ。だから……あんたは大丈夫だよ」
思いがけないほどやさしい声音でそう言うと、つばくろは、手にしていた灯火の火種を、いつの間にか現れていた燭台に移した。
「太政大臣」
なずなの後ろにいる、今まで無言だった太政大臣へつばくろは呼びかける。
「あんた、なずなさんの後ろにいると邪魔になってしまいかねない。こちら……そうだね。この燭台を挟むようにして、妾の隣にでも座っていておくれよ」
「……承知した」
どこか緊張を孕んだ、むっつりとした声で太政大臣は答え、なずなの横を通ってつばくろに並ぶような位置に腰を落とした。
「残念ながら、妾が使える楽器は琵琶だけでね」
これもやはり、いつの間にか現れた琵琶を抱え、つばくろは無造作に座ると弦を調節し始めた。
「あまり神事に合う楽器じゃないが、何もないよりは舞い易かろうよ。節会の舞に使われる曲くらいなら、下々の妾でも奏でられるからね」
調音が済んだのか、つばくろは顔を上げてなずなを見た。
「始めよう」
腕をひと振り。
足をひと踏み。
舞の所作を刻む度に、彼女の手足に結われた銀の鈴がゆれる。
その鈴の音は楽人の奏でる音を絡めつつ響もす。
あの時と同じように。
舞い始めた時は緊張と恐ろしさで、なずなの手足はうまく動かなかった。
しかし、奏でられる豊かな琵琶の音階に耳と心を集中していると、次第次第に身体から力みが消え、あの日と同じように心地よく舞えるようになってきた。
腕をひと振り。
足をひと踏み。
ゆれる鈴が涼やかに音を刻む。
なずなの全身・全存在から余計な思いや言の葉が消えていた。
疫病を払う。
病を退ける。
なずなは今、その願いが神格化した『気』を受け入れる最高の器……巫覡以外の何者でもなかった。
(見えるかい?)
どこからともなく聞こえてくるつばくろの囁き声に、なずなはふと、己れが人間であることを思い出した。
(あそこに、紅姫がいる)




