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五 ゆく鳥・追う鳥②

 突然襟首をつかまれたような衝撃。御子は鋭く息を吞む。


 ハッと我に返った時と、几帳を隔てた先のざわめきに鋭い緊張感が加わったのがほぼ同じ。

 首の周りに、じっとりと嫌な汗をかいている。

 御子は横たわったまま、ひとつ大きく息をつく。

 額に浮いた汗を手の甲で軽くぬぐうと、夜具を蹴り上げ、まろぶように彼は、紅姫の病床へと向かう。



 紅姫の顔が白い。

 いや、むしろ青黒い。

 一瞥でただ事でないのを覚る。


「縹の御子さま」


 顔見知りの女房が目顔で御子へ、そばに来るよう促す。


「何卒、紅姫さまの御魂みたまを引き留めてくださいませ」


 落ち着いた静かな口調で女房はそう言ったが、彼女の瞳には隠し切れない絶望の影があった。


(魂を……引き留めるだと!)


 瀕死の者へ身近な誰彼が語りかけ、黄泉路へ向かおうとする魂を引き留める努力をそう呼ぶ。

 万に一つも可能性のない、起こりえない最後の奇跡にすがる、気休めにも似た努力。


「……紅姫」


 だがしかし、そうせずにいられようか。

 たとえ虚しい努力であったのだとしても。


「紅姫、聞こえますか?はなだです」


 夜具の陰に力なく投げ出されている小さな手を、御子は両手で包むようにして握る。

 不吉なまでにひんやりとした彼女の手は、力がまるで入っていない。


「紅姫、どうぞお元気になって、我の肩巾ひれに刺繍をなさって下さいませ。前にも申し上げましたよね、我は姫が刺繍をした肩巾以外の肩巾で、あらたまごとへ臨むつもりはありません。我の初めてのあらたまごと、肩巾なしで参じろと?……お願いです、お願いです紅姫。どうぞ……どうぞお目を開けて下さいませ」


 こらえきれないすすり泣きが、あちこちから漏れる。

 まるで、もう紅姫が身罷ったかのような場の空気に苛立ち、彼は声を張り上げる。


「それでも貴女がゆくとおっしゃるのなら。我は、冥府であろうとどこであろうと迎えに行き、此岸コチラへ連れ戻します!……貴女は我の運命。独りでゆくなど認めません!」


 叫んだ瞬間、ふっと、御子の目の前に靄がかかった。

 身体の平衡が突然狂う。

 周りにいる者たちの慌てた声が、水の中で聞く音のようにぼんやり御子の耳朶を打った。

 片頬に、柔らかな絹の寝具の感触を感じながら、御子は、瞬くうちに強い眠気に引き込まれた。



 薄闇の空。枯れ草の草原くさはら

 風にたなびく、墨を流したような黒い雲。


(……え?)


 ここは……いつも見る夢の中。

 草原を早足で進む母君を追う、虚しくも切ない夢の舞台。


 後ろから迫る、さわさわさわ、と草を踏む足音。

 目の前をよぎる白い影。

 しかしその影は母君ではなく……。


「く、紅姫!」


 空を行く黒い雲を思わせる、不吉な黒い影を身にまとわせた紅姫が、虚ろな目をして早足で歩いてゆく。


「紅姫、お待ちください!そちらへ行ってはいけません!」


 叫び、御子は駆け出す。


(いけない、いけないいけない!そちらはきっと冥府の入り口です!)


 枯れ野を進む母君の姿が、御子の脳裏にまざまざと浮かぶ。


「紅姫ー!紅姫ー!」


 喉を破る勢いで、御子は紅姫へ呼びかける。

 しかし紅姫は、振り返るどころか足を緩めることもない。


(逝くな、逝くな逝くなー!)


 御子は駆ける。

 絶望的な紅姫との距離を、たとえ一寸でも縮めたいと胸が破れそうになっても構わずに駆け続ける。

 息もろくに吸えなくなり、脚がもつれたが、御子は進むことだけを一途に思う。



 ……どのくらい走ったのか、御子がわからなくなった頃。

 細く鋭い声で鳴き、矢のような速さで飛んでゆく小さな小鳥の影を見た。

 白と黒の羽根色。

 鶺鴒せきれい、だ。

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― 新着の感想 ―
[一言] そ、そんなあああ!!!(ブワッ)
[一言] 紅姫はやはり大事な人。
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