一 うるわしき春の日に②
「……どうした?」
女房の表情を怪訝に思い、御子は問いかけた。女房は慌てて身を折り、頭を下げた。
「いいえ何でも。大変失礼をいたしました」
「何でも、という顔ではなかったがな。ひどく驚いたように見えたが」
女房は逡巡した後、小さい声で答えた。
「その……御子様の笑んだお顔が、あまりにも月影の君に似ていらっしゃったので」
「……ああ」
冷めた声が出た。
どうやらこの女房、さっそく父に手折られているらしい。
でなければ御子付きの新しい女房が、月の宮に居ることの少ない主の笑みを間近で見ることなどない。
『華やぎに儚さがまじる、さながら桜吹雪のごとき笑み』
月影の君の笑みを例えた言葉だ。
顔は似ている訳でもないのに、笑みは似ているらしい。幼い頃から他人によくそう言われてきた。
この笑みは『雅男』たるあの方の、最も強力な得物であろう。
しかし雅男になる予定のない縹の御子にとっては、そのような得物、必要ない。ただうとましいだけだ。
戯れに手折った花をそのまま捨ておくのも哀れと、あの方はこの女を、宮仕えの女房として召し上げたのだろう。
それならご自分の側付きにすれば良かろうにと思うが、ご自分の側で使うと新たな騒動の種になると考えたのかもしれない。
あの方の側付きである女房は、お手がついていない方が珍しいという噂も聞く。
さすがに、まったくその通りではなかろうが(いくらまめな雅男でも、のべつ女と致していては身が持つまい)、当たらずとも遠からず……というところであろう。
(……まったく)
ため息も出ない。
何を考えているのだ、あの『雅男』は。
だが、只今目の前でひれ伏す女房に罪はない。
罪はひたすら父にある。
あの男が不実だと知っていて手折られたこの女に、まったく咎はないとも言い切れないが、当代の『月影の君』の思し召しを断るなど、中流以下の貴族の子女には難しいだろう。
御子は笑みを作る。
「面を上げなさい。我の笑みは父に似ているとよく言われる。初めて見た者には驚かれることも多いから、気にするな」
しかし女は更に身を縮め、畏まるばかり。
これ以上声をかけてもかえって困らせるだけかもしれないと思い、御子はあえて周りを見回し、話を変えた。
「さて着替えよう。用意は出来ているか?」
思し召しのままにと、他の女房達は動き始めた。
薄青に濃い青を重ねた若草の襲の直衣を召し、縹の御子は、『影』と呼ばれる護衛士と側付きの殿上童二、三ほどを連れて大王のお住まいである『大鳥の宮』へと向かう。
あちらには異腹の妹君である『紅姫』もいらっしゃる。
大王唯一のお子である姫は、お生まれになった時から事実上、縹の御子の許婚である。
王族が王族たるに一番必要とされる能力は、祖神たる大白鳥神の霊力を受ける良き巫覡、すなわち器であること。
その血が濃いほど良き器となる可能性が高い故、王族の方々は近親婚になりやすい。
他の氏族の血を交えながらも神の血が薄くなり過ぎないよう、王族の方々は慎重に代を重ねていらっしゃった。
濃すぎる血は、身体が弱くて育たない御子が生まれるなどの問題もあったが、薄まりすぎると大白鳥神の峻烈な霊力を受ける器になれないことは、経験からわかっている。
次世代を担う御子方のうち、最も濃い血を受け継ぐのは大王のただおひとりの娘である紅姫、次に濃い血を受け継ぐのは月影の君と縹の御息所のお子である縹の御子。
大王と月影の君が異腹の姉弟なので、お二人は異腹の兄妹にして従兄妹といえる。
他に御子や姫御子と呼ばれる方は(主に月影の君のお力?で)五人ばかりいて、離宮で大切に養育されているがお二人より幼い。
この世代でお二人は、最も年齢の近しい、そして血の近しい、正しく直系といえるお二人であった。
仮にお二人の仲が余程悪くとも、婚姻し子を成すは必然と言える間柄でもあった。
(いや……それだけでなく)
御子はふと、初めて紅姫に会った日のことを思い出し、かすかに笑んだ。
白い産着にくるまれた美しい赤子を見た瞬間、当時三つであった御子の胸のうちが、訳もなくふんわりあたたかくなった。
春の日差しを浴びたかのようなそのあたたかな胸の芯から、誰とも知れぬのに懐かしい、こんな声が響いてきたのだ。
『この方は特別な方』
『そして対なる方』
『次の世の礎たる方』
……と。