四 丹雀の館⑥
牛車が止まった。館の車寄せについたらしい。
御簾が巻き上げられ、なずなは牛車から出た。
すでに夕刻だった。
西の空が茜色に燃えている。
夕闇の底、地平を這うように燃えている茜色は、不思議と見る者の心を騒めかせる。
「こちらへ」
必要最低限の言の葉しか発しないであろうと思われる、陰気そうな従者の男が目顔で促す。
うなずき、なずなは男の後へついてゆく。
ついてゆきながら、何だかやけにひんやりした館だなと、彼女は思った。
太政大臣の話の後、なずなはすぐ、彼の住む館へ連れてゆかれることになった。
魂呼びの儀を行う準備もその儀を取り仕切る巫覡も、そちらですでに準備されているそうだ。
「非常にやっかいなことに、この儀は、紅姫が冥府へ向かおうとするその刹那にしか行えない、ただ一度しか機会のない儀なのだ」
太政大臣は青黒いまでの顔色で、苦しそうに言う。
「非常に際どい、失敗の許されない、そういうものなのだそうだ」
更に顔をこわばらせるなずなへ、太政大臣は軽く目許をゆるめた。
「……であるが。そう案じることはない。貴女は夏越しの宴で、意地の悪い貴人たちの数多の視線をものともせず、素晴らしい舞を舞った。貴女は貴女が思っているよりも強い」
そして思い出したように彼は、傍らにある冷めかけた茶に手を伸ばし、唇を湿らせた。
「あの時。あの舞台は神域に等しい清しい気に満ちていた筈だ」
なずなはうなずく。あの白木の舞台に、郷の社の舞台と同質のものがあったのは確かだ。
「夏越しの宴が神事であるという意識は、すでに宮中からも薄れているが。それでも舞台の設営は細かいところまで古式に則り、進められる。それがたとえ形だけだとしても、神気はきちんと寄ってくる。寄り付く神気は、霊力を正しく扱える巫覡がいれば十全に顕れる。あの舞は正にそういうものであった。貴女が貴女の持てる力を出し切れば、そう難しい儀ではない。これは我が気休めでそう言っているのではなく、今回の儀を取り仕切る巫覡がそう言っているのだから間違いない」
「……我にどこまで出来るかわかりませんから、何とも言えませんが」
なずなは声を絞り出す。どうしても小刻みに身体が震えてしまう。
「紅姫の御為、出来る限りの力は尽くします」
正直なところ、理不尽に対する恨みがましい気持ちが、彼女の中に皆無とは言えない。
だが。
己れの命を惜しんで死ぬとわかっている姫御子を見捨てるなど、なずなには出来ない。
人情としても、臣のひとりとしても。
たとえ自分が、姫御子の忌まわしいさだめを移される為だけに用意された、人形に過ぎないのだとしても。
王国にとってどちらが大切、どちらが必要な命なのかと言えば、紅姫の方に決まっている。
冷静に考えればそれしか答えはない。
(次代の日輪の君をお助けできるのだ。私の死は、決して無駄にならないわ)
郷里の誰かれの顔が不意に浮かび、胸がきゅうっと苦しくなった。
が、社の大巫女の難しい顔と餞の言の葉を思い出した途端、何かがストンと腑に落ちた。
『なにやら大それた相が出ている。出来ることなら行かない方が、お前は気楽な人生を送れるだろう。が、行かないと世界が激しく歪む、という相でもある。どうも畏き辺りが本当に、お前を必要としているようだ。そこで務めることが、この三年ここで神に仕えてきたのと同じかそれ以上の意味があると読み取れる相でもある。神に最も近い畏き方々へ、お前は巫女のつもりで仕えなさい』
(……はい。つまりこれこそが、占にあった我が役目。謹んで果たして参ります、大巫女さま)
世界を決して、歪めさせはいたしません。
それこれ物思いをしつつ、なずなは屋敷の奥へ向かう。
からり、と、乾いた物音がして軽い足音と衣擦れの音が近付いてきた。
「お初にお目にかかる、鶺鴒の姫」
幼い声音であるのに尊大がにおう、そんな声と同時に小さな人影が現れた。
なずなより頭一つくらい背の低い、濡羽色の髪を童子結いにした少女だ。
白一色の神事の装いに、髪の色にも劣らぬ漆黒に染められた、上等の肩巾をぞんざいに纏っている。
少女はゆるく腕を組み、その深い黒の瞳でひたっとなずなの目を見た。
「妾は『つばくろ』と呼ばれている者だ。一応、燕雀の頭とか元締めとか呼ばれてもいる。今回の儀を取り仕切らせてもらうことになった、まあ、そう長い付き合いにはならないが、以後よろしく頼む」




