四 丹雀の館②
紅姫のおそばから下がったなずなは、早足で厨へ向かう。
そして主の所望するものを厨へ伝え、再び早足で戻る。
(姫様、どうなさったのかしら……)
渡殿を行きながらなずなは思う。
冴えた風が一瞬強く吹き、なずなは咄嗟に身を縮めた。
季節が変わる頃、紅姫は体調を崩しがち。
特に寒くなりかけた頃に寝込むことが多い。
朋輩や古くからいる女房たちから聞いた話だ。
このところ朝夕はかなり冷えるようになった。何故か必要以上に(と、なずなも周りの者も思わずにいられない)縹の御子の為の肩巾への刺繍を急ぐ紅姫のお身体が、心配になってくる。
(まるで……この機会を逃すと、永遠に刺繍を刺せなくなると怯えていらっしゃるような?)
そんなことをふと思い、あわてて否定する。
縁起でもない。
お部屋へ近付いた頃、常にないざわめきの気配が伝わってきた。
「……なずな殿?」
物陰から現れたのは、紅姫の筆頭護衛士を務めている玖珠という伺候名の娘だ。
衛士らしいすっきりとしたたたずまいに隙のないいでたちは、常とまったく変わらない、が……まとう空気がどことなく違う。
「もう厨へ、姫様の言付けを言いに行かれたのか?」
たとえ姿は見せなくても、彼女は紅姫のおそばにいつもいる筈。
紅姫となずなの話も聞いていただろうし、なずながそれからすぐ厨へ向かったのも知っていよう。
訊くまでもないことを訊く玖珠に違和を感じながらも、なずなはうなずく。
玖珠は軽く息をつくと、微妙に顔を曇らせた。
「せっかくの心遣いだが、無駄になりそうなのだよ。姫様は先程、具合を悪くされた。ここ最近、特に今日。かの方は刺繍を刺しながら、幾度も額に浮いた汗をそっと押さえていらっしゃったので、我も気にはしていたのだが。なずな殿が下がられて程なく、姫様は針山に針を戻して、突っ伏してしまわれてな。あわてて我が助け起こしたら、常よりお身体が熱くなっていて……」
なずなはまろぶようにして主の許へと急いだ。
それから四、五日ばかり過ぎた。
紅姫の容体は悪い。
季節の変わり目に寝込むのは、ごく幼い頃からかの方によくあることではあったが、今回は常より病が篤い。
こんなにお熱が高く、四、五日経っても下がらないことなど初めてだと、薬師は重いため息をついている。
病そのものは他人にうつるようなものでなく、紅姫ご自身のお身体が生まれつき、気候の変化特に寒さに弱いのだろうという話だ。
やんごとなき方々が連日、紅姫の許へお見舞いにいらっしゃる。
縹の御子などは巫覡の修行を中断し、二日前からこちらにいらっしゃる。
そして熱に浮かされてる姫のそばで、暗い目をして座っている。
薬師や女房がかの方のお身体を案じ、別室で休むよう何度も勧めたが、御子はゆるく首を振り、夜遅くまで紅姫のおそばから離れようとなさらない。
「……紅姫。我の為に、肩巾の刺繍をこんなに進めて下さっていたのですね。見せてもらいましたが、丁寧に刺された大白鳥神のお姿、息を呑むほどでした。我はこの肩巾以外で『あらたまごと』に臨みません。早くお元気になって、この続きを刺して下さいませ」
「……紅姫。月の宮の庭にある楓と銀杏が美しく色付きました。もうしばらく見頃は続きます故、お元気になったら共に紅葉を愛でながら、一日、笛を吹いたり茶菓を楽しんだりして遊びましょう。お待ちしておりますよ」
朦朧としながらも紅姫は、優しく話しかける愛しい方の声が嬉しいのか、うなずいたりほほ笑んだりなさっている。
水で冷やした手ぬぐいを替えたり、蜜を溶かした水を含ませた綿で紅姫の唇を湿らせるなど、お世話係の女房がするようなことすら、御子ご自身がご自分の手でなさる。
そんなことまで、と従者たちは御子をおとどめするが、御子は紅姫の為に何かしないではいられないご様子だった。
(縹の御子は……ひょっとして何か察していらっしゃるのかしら)
なずなは胸の内で密かに思う。
紅姫の周りにうっすらと死の影が見える。
もちろん口に出さないが、なずなには感じられる。
忌まわしいことに、それが日に日に濃くなっているのも。
故郷の社で見習い巫女をしていた時から、なずなは、死に近い者がなんとなくわかった。
本人が若いとか老いているとか、病を得ているとか健やかであるとか、必ずしも関りがないことも知っている。
長患いをしていても影らしい影が見えない者もいれば、若く健やかなのに影を感じる者もいる。
その者の、さだめや巡りあわせなのだろう。
(一時的に死の影が見えても、何かのきっかけで脱する者もいるわ。姫様も、きっと……)
縹の御子の一途な想いが、きっと紅姫の魂を現世に留めさせる。
少し離れたところから朋輩たちと、寄り添うようにしていらっしゃるお二人を見つつ、なずなは思った。
祈った、の方が正しいのかもしれない。




