三 律(りち)の風⑥
その宵。
禁中の一角から、わざと簡素に仕立てた牛車が一台、小路へ現れた。
牛車は静かに轍を食み、王都の外れへと向かう。
太政大臣の車だった。
かの方は臣へ下った後、王都の外れに小さな屋敷を構えた。
そこに最低限の従者だけを置き、御身分には不釣り合いなほど簡素で質素な暮らしをなさるようになり、すでに久しい。
かの方の隠れ家とも言えるそこに、妻や情人を置くこともない。
そういう者を持つことのないよう、ご自身で気を付けている部分もある様子だ。
(……我にそんな資格はない)
御簾越しに流れてくる冴えた香りをかぎ、太政大臣は小さくひとつ、息を落とす。
夏の、緑濃い草いきれが道をゆく風に混じらなくなった。
季節は移り変わっていると、不意に気付かされる瞬間だ。
風に秋の気配が混じる頃になると、太政大臣はいつも、忘れたくとも忘れられない苦い思い出をかみしめる。
太政大臣が『一の宮』と呼ばれ、将来は異母妹たる『二の姫御子』――現大王――の伴侶として嘱望されていた頃。
慣習通り彼は、十五の初春に御息所を迎えた。
同い年の、大人しやかで優しい姫であった。ともすれば過剰に心が動く傾向のある彼を、知らず知らずに柔らかく包み込むような人でもあった。
仕事でぐったり疲れていても、彼女がにこにこしながら
「お戻りなさいませ、一の宮さま」
と出迎えてくれれば、心のこわばりが解けて自然と頬がゆるんだものだ。
一目で惹かれるような美しい容貌や、力強い魅力のある女性ではなかったが、彼女のそばはいつもあたたかかった。
たとえるのなら、春の日に桜花の下でまどろんでいるような心地がした。
一日より二日、一ヶ月より二ヶ月、共に過ごす時間が長くなればなるほど、彼は御息所を愛するようになっていた。
(わが同母弟が縹の御子の母御と出会ったばかりの頃。己れの半身としか思えない少女に出会ったと夢見るような瞳で言った時、鼻で嗤ったものだったが。ああ、これがそういうことなのかと、心密かに納得したもの……)
二の姫御子は愛しい。
でもそれは、身内の少女が愛しいという感情なのだと彼は気付く。
将来かの方の夫、つまり大王の夫になることはお役目であり、拒絶するつもりなどない。
が、御息所にとっても姫御子にとっても、己れは不実な男になってしまうのだと卒然と覚る。
御息所を愛していても、姫御子が成人すればかの方の夫になる。
いくら最初からわかっていても、夫が他の女の夫になるのは御息所の心を陰らせるであろう。
また、姫御子にとってもご自分の夫が、心の中に他の女を住まわせていながら役目として妹背の契りを交わすなど、心が冷え冷えする話だと思い至る。
かの方を恋の対象として見ることは出来なくても、決して憎んでいるのでも疎んでいるのでもない。
臈たけて聡明な彼女を、妹として愛している。
愛する者ふたりをただ苦しめるのかと思う度、彼は気が塞いだ。
気の塞ぎが病を呼んだ。
最初は彼だけでなく、皆そう思っていた。
刺すような下腹の痛み、下ばきをぬらす赤黒い血。
どんな悪い病に憑りつかれたのかと、彼も御息所も青ざめた。
だが、童子の頃から彼を診ている薬師は、暗い顔はしていたが、いやに落ち着いていた。
来るべきものが来てしまいましたか、と、ため息まじりの小声で薬師はつぶやいた。
その諦めきったような言の葉がひどく恐ろしかったのを、今でもまざまざと太政大臣は思い出す。
「実は、貴方様は本当の意味では男性ではないのです。その身に男と女の要素を持つ……極めて珍しい型の半月でいらっしゃるのです」
男であり、同時に女である身体を持つが、残念ながらどちらも完全ではない。
男として精を放つが、腹の中に子宮を持ち、成熟すれば月のものも持つようにもなる。
ただどちらも不完全なので、子を産ませることも産むことも出来ない、と。
「遥かな昔、大白鳥神は独り身でありながら子を産むため、その身を男と女に別けた。大社に伝えられている神世の話にありますように、王族の方にはごくまれに、先祖返りのように半月の御子が現れると聞きます。男であり女であるその身体は、神世ならばいざ知らず、子を成す力は持ち得ません。
ただ、男女どちらかの特性しか成熟しなかった場合は子を成せるということも知られています。
宮さまは物心がお付きになられて以来、男児以外の何者でもあらせられませんでした。精通はありましたが月のものはなく、采女の奉仕を受けた時も問題が見られませんでしたし、御息所とも仲睦まじくお過ごしでした。このまま男性として一生を終えられる可能性が大きいと、我らは判断をいたしておりましたが……」
予想に反し、『女』としても成熟してしまった。
この下腹の痛みと赤黒い血は、月のものである。
それからのことは思い出すのも疎ましい。
太政大臣は深いため息を吐いた。
当時若かった太政大臣は己れの状況が受け入れられず、荒れに荒れ、御息所にも冷たく接した。
どれだけ望んでも御息所を母にしてやれない己れが、情なく申し訳なく、まともに彼女の顔も見ることすら出来なかった。
程なく評判の良くない者たちと遊ぶようになり、自傷のように自分の身体を好きにさせたのもその頃だ。
あらゆる好き者たちが太政大臣――当時の一の宮――へ、淫蕩な遊びを覚えさせた。
男としても女としても弄られ、まともに足腰が立たなくなるまで複数の男たちと過ごした、放埓で自堕落な日々。
彼が正気に返ったのは、御息所が命を断ったと聞かされたからだ。
(御息所が気鬱の病を得て寝込んでいる、帰って、せめて見舞ってやってくれと、乳兄弟や腹心の従者たちが何度も言ってきていたのに我は無視をし続けた。こんな夫に呆れてさっさと里下がりし、そこで気の合う男でも見つけてくれればいいのにと、愚かで現実味のないことを考えていた……)
若気の至り。
一言でいえばそうなるだろうが、決して笑い話にならない『若気の至り』だ。
最愛の女性を、深い哀しみの中で死なせてしまった。
命を断ったのは彼女自身の意思かもしれないが、そこまで追い詰めたのは彼だ。
彼が御息所を殺した。
どんな言い訳をしようがそれは変わらない。
誰よりも彼が、それを知っている。
(我が半月であることを、もっと静かに受け入れていられれば。少なくとも御息所を死なせることはなかった……)
罪深い己れに出来るのは、己れが成すことの叶わぬ次代を守ること。
それを成さず、御息所のいる冥府へは逝けぬ。
脇息に身を預け、遠い目をして太政大臣はもう一度、深い深いため息を吐いた。




