三 律(りち)の風⑤
風が清かになるにつれ、縹の御子の心は静かになった。
ゆっくり呼吸をする。
吸う息、吐く息を通じて大気に心を溶かし、魂を大気と同化してゆく。
(……この世はあるがままで均衡がとれている)
巫覡の心得として修行の初めの頃から聞かされている言の葉が、このところ改めて身に沁みる。
(あるがままで美しく、あるがままで不足はない。不足と感じる場合は大抵、己れの心の歪みがもたらす澱みや灰汁のせい。……その通りだ)
世界は美しく循環している。
王族たる者の第一の務めは、その循環を滞らせないこと。
(過ぎた我欲に囚われるな)
そもそも紅姫に不足や不満があろうか?
否。
世界の循環の為、御子がかの方と結ばれて次代を繋ぐことは必然。
しかし『必然』以上の縁を、御子は、物心がつく前からかの方に感じていた。
それはとても得難く、有り難いこと。
改めて御子はそう思う。
仮に、互いが嫌いであろうが憎んでいようが、御子は紅姫と結ばれるのがさだめ。
そのさだめを持つ者同士が愛しいと思い合っているのだ、こんな僥倖そうあるものでもない。
……そう。
大王と御子の父君が、互いを姉弟としか思えなくても夫婦にならざるを得なかったようなことなど、王族の長い歴史の上ではありふれている。
当代のおふたりが決定的に冷えた仲ではないだけ、まだましなくらいであろう。
(なずなへの我の一方的な思いは、たとえるのなら一夜の夢のごときもの。夢は美しいし頭から否定するものでもなかろうが、決して現実にはなり得ない)
むしろ、夢だからなお美しい。
そこまで思い、御子は口許をかすかにゆるめた。
今ならばややしまりのない諦め笑いを浮かべ、彼女が鶺鴒の里へ帰る日を静かに見送れそうな気がする。
夢は夢として心の奥底へそっと沈め、前を向いて、己れに定められた道を歩いてゆける。
幼い日からよく知る、愛しいと感じる少女と共に。
そんなことを頭の隅で考えながら、御子はゆっくりと息を吐きながらまぶたを開けた。
「いい感じにお心が鎮まっているようですね。そのまま静かにお心を研ぎ澄ませてゆかれればきっと、大白鳥神の御霊を受け入れられると思われます」
指南役として大社より来ている、年老いた神官が少し離れたところからそう言った。
縹の御子は軽くうなずき、やわらかく笑んでそれに応えた。
風が清かになるにつれ、紅姫の心は静かになった。
緋色の絹に丁寧に金糸を刺していくうち、自然に胸のもやもやは薄れてゆく。
まだ病が抜けきらぬあの日の縹の御子の、放心したような瞳の色を思い出す度に疼く痛みも、ずいぶん和らいできた。
(……あれは夢。あの方は、刹那の神女に惑っただけ。今ならそれがよくわかる)
何も知らず熱心に仕えてくれるなずなの姿を見るにつけ、紅姫は、苦みのある笑みをかみ殺し、意識してのんびりとした表情を作る。
あの、凄味すらある節会の舞姫の面影は、ただただまめやかで律儀な女童・『なずな』にはない。
あれは、なずなの魂を込めた舞の力が現実へと呼んだ、疫病祓いの神女。
そう呼ぶべき、そうとしか呼べない存在。
だから、どれほど焦がれても人間の手に入るような存在ではない。
(夢に惑うことくらい……あっても仕方がないでしょう)
紅姫の乙女心はじくじく痛むが、あれを浮気と呼ぶのも気の毒だくらいの判断は出来る。
かの方は、この世のどこにもない刹那の存在に、一時的に心惹かれた、だけ。
神でさえ『花嫁』として召したくなるであろうあの時の舞姫に、心惹かれたのは何もあの方だけではない。
非公式ではあるが、あの女童が宮仕えを終えた後、妻にしたいという話が幾つも来た。
中には(けしからぬことながら)、宮に忍んでなずなを盗もうと企てた痴れ者もちらほらいたらしい。
もちろんあっさり捕らえられたが、大王のおわす宮殿へ、かの方の一人娘たる紅姫に仕える女童を盗み出そうと忍んでくるなど、狂っているとしか思えない。
そこまで狂った者がいたくらいだ、比べる者のないほど誠実なあの方であっても、心乱されたとしても仕方がない。
しかしあの神女はもうどこにもいない。
なずながもう一度、同じ舞台で同じ舞を舞ったとしても、現れるとは限らない存在だ。
そんな、刹那の女に焦がれても虚しいだけ。
どうやらあの方もそうお思いになられているご様子、ならば我も何も言うまい。
このところの清かな風を胸に入れながら、紅姫は思う。
思いつつ、彼女は緋色の絹地へ金糸を丁寧に置いてゆく。
それに、刹那の神女は決して、かの方の為に刺繍は刺せない。
ふとそんなことを思い、紅姫は、己れの心映えを密かに恥じた。




