三 律(りち)の風④
「なずなにお願いがあるの」
日中は少し暑いものの吹く風がなんとなく冷たく、陽射しにどこか黄色味が加わってきた頃。
紅姫は、なずなへそうおっしゃった。
「我がお役に立てるのであるならば、何なりとお申し付け下さいませ」
少し気負ってなずなは答える。
夏中どことなく沈んでいらっしゃった姫だが、今日は顔色も明るい。
何かがふっ切れた、そんな雰囲気であった。
「涼しくなってきたから、縹にいさまはそろそろ本格的に『あらたまごと』の為の修練をなさるそうなの」
王族の方々は世俗を治める長であると同時に、神々の王である『大白鳥神』をその身へ降ろして神意を聴くことが出来る、唯一のお血筋。
初春に行われる『あらたまごと』で、向こう一年の占を問い、弥栄を祈念するのが王族の方々の一番大切なお仕事でもある。
それ故、大王に血の近い御子方は幼い頃から、次代の大白鳥神の依り代になるべく巫覡の修行をなさるもの。
紅姫もなずなが宮仕えへ上がる前に、すでに初歩の修行を終えていらっしゃるそうだ。
成人になる数え十五の初春、初めて『あらたまごと』へ参じる御子や姫御子は、祖神たる大白鳥神の激しい御霊を、初めてその身へ降ろすことになる。
場合によるとその神威の激しさに耐えきれず、お役目を果たせない可能性もあると伝えられている。
事実長い歴史の中では、濃い王族の血をひく御子であっても大白鳥神の依り代になれなかった方が、ちらほらいらっしゃるのだとか。
それ故、初めて『あらたまごと』を迎える御子や姫御子は、冬になる前からそちらの修練を念入りに行われるのが普通だ。
「『あらたまごと』に用いる装束のひとつに、緋色の正絹に金糸で大白鳥神の意匠を刺繍した、肩巾があるのだけれど。その意匠は、身近な者が刺したものを使う方がいいと伝えられているのよ。我の刺繍の腕前は、決して極上とは言えないけどそう悪くもないわ。今から頑張れば、きっと神事までに仕上げられるだろうと思うの。なずなは誰よりも刺繍が上手でしょう?是非今回、刺繍の指南をお願いしたいの」
「どこまで出来るか心許ありませんが、姫様のお役に立ちたく思います。非力な身ですが精一杯おつとめ致します」
頭を下げるなずなへ、紅姫はほほ笑む。
「よろしくね。かなり細かい刺繍になるから、図案を組むところから面倒で気を遣うと思うわ。これまでに使われた図案を取り寄せたから、まずは一緒に見てみましょう」
この日からしばらく、紅姫となずな、そして他の女童たちも一緒になって、肩巾の刺繍に使われた下絵を選んで図案に起こしたり、試しに刺して検討したりをくり返した。
女主が明るさを取り戻したからであろう、紅姫の暮らす対屋にこれまでのような活気が戻った。
なずなや女童たちだけでなくそばに仕えている者みなの表情が、秋の空のように清々しくも明るくなった。
紅姫の影響力のすごさを、なずなは改めて感じた。
さすがは次代の日輪の君・照日の君。
かの方は、ほほ笑んでその場にいらっしゃるだけで、みなの心を明るく照らすのだな、と。
修練でお忙しいながら、縹の御子からは季節の花や果物を添えた文などがちょいちょい、送られてくる。
瞳を輝かせて御子からの文を読む紅潮した姫の頬を見て、なずなたちは深く安堵する。
縹の御子と紅姫はやはりこうして、仲良く思い合っていただきたいものだと朋輩たちとうなずき合う。
さながら絵物語にも似た、お二人が生まれた頃から続く奇跡の如き一途な恋に、哀しい行き違いなど相応しくない。
(会えない時間が恋しい思いを育てると、里にいた頃に守役の女たちが言っていたのを聞きかじったけど。本当にそうなのね)
そんなことをなずなは思い……何故か。
夏のあの日、病んで臥せっていた御子のひどくなまめかしいたたずまいを思い出し、我知らず彼女は頬を染め、小さなため息をついた。




