三 律(りち)の風③
『なずな』という伺候名で紅姫に仕えている女童は、御簾越しに空を見上げ、額に浮いた汗を押さえた。
なずなは、このところ沈みがちな主を気にかけている。
夏越しの宴からすでにひと月。
夏はようやく盛りを超え、朝夕しのぎやすくなり始めた昨今だ。
夏越しの宴で縹の御子がお倒れになり、寝込んだ。
お疲れが出たにしては病が篤く、十日ばかり寝付いていらっしゃった。
なずな自身がそれを知ったのは、宴が済んだ後だ。
節会の舞姫のお務めは舞い終わった後にもある。
これは略式ながらも神事であるので、昼を過ぎる頃まで何かと儀式があり、なずなが紅姫のおそばへ戻ったのは日暮れ。
その頃には紅姫も朋輩たちも、宴の場を離れていつもの部屋へ戻っていた。
戻りましたと挨拶した時、紅姫から、お務めのねぎらいと奉納舞が素晴らしかったことのお褒めをいただいた。
だが姫の表情がどこか冴えない。
「縹の御子さまが、宴の最中にお倒れになられたの」
朋輩からそう聞き、なずなは驚く。
縹の御子が昼前、笛を披露して大いに盛り上がったという話は漏れ聞いている。
一連の儀式が終わり、いつもの小袿姿に戻って厨のそばの小部屋で遅い昼食を食べていた時、大王が縹の御子へ『菓子を添えた文』を贈ったという噂を聞いた。
成人前の演者が、大王から『菓子を添えた文』を贈られるなど前代未聞だと、皆々興奮気味に噂していた。
「それは素晴らしい演奏だったのよ。我のようなもの知らずの子供でさえ、聴いていると胸が切なく締め付けられるような心地がする……そんな音色だったの。大人たちは皆、縹の御子はきっと、恋の情趣をお知りになったに違いないなんて噂していたわ」
この朋輩は元々、紅姫と縹の御子の、絵巻物に出てくるような一途な恋に憧れを抱いている。
(いや紅姫付きの女童は皆そうといえなくもない……なずなを含め)
彼女の頭の中では、素晴らしい笛の演奏で紅姫へ求愛する縹の御子の姿が、絢爛たる絵巻物になっているらしい。
(でもそれにしては……紅姫が沈んだご様子でいらっしゃるような?)
正直、今の姫のご様子は、愛する方に思いのこもった素晴らしい演奏を捧げられた、幸せな乙女と思えない。
(……その演奏を果たす為、御子が、病むほどご無理をなさったからかしら?)
紅姫はお優しい。
己れの為にそこまで励む御子のお気持ちは嬉しいものの、お身体を壊してしまわれたことが心配で、あんな風に顔色に出るほど胸が塞いでしまわれたのだろう。
どこかに違和を感じながらもなずなは、その日、そう解釈して自分を納得させた。
御子が少し回復なさったと聞き、宴から三、四日経ったある日、なずなも主に従って月の宮へ向かう。
几帳の陰から垣間見ても、縹の御子は、ぎょっとするほどやつれていらっしゃった。
寝床に半身を起こし、少し困ったように御子は笑う。
「ご心配をかけてしまいましたね、紅姫。自覚以上に疲れていたところへ、夏ばてが重なったのだろうというのが薬師の見立てです。しばらく食欲が落ちたせいで、実際以上に重い病のような見かけになってしまいましたが、最近また食べられるようになってきましたから、ほどなく回復……く、紅姫!?」
あわてたような御子の声に、なずなたちは思わず几帳の陰から顔を出す。
寝床からまろび出た御子が、血の気の引いた顔で紅姫の肩を抱いていらっしゃった。
紅姫は御子に肩を抱かれたまま、ほっそりした身体を震わせていらっしゃる。
「な…泣かないで……下さい」
困惑した声の御子。紅姫は、かの方へもたれるようにしながら首を振る。
「泣いてなどおりません……いえ。ならば、我を泣かせないで下さいませ」
縹の御子はふっと眉を曇らせ、曖昧なほほ笑みを頬にはいた。
「……もちろんです。承知いたしました」
何故かなずなの胸がドキリと鳴る。
妖しいまでの色香が刹那、御子のやつれた全身から匂い立つ気がされたのだ。
ふと、なずなと御子は目が合った。
どことなく苦しいような色が、かの方の縹色の瞳を瞬間的に陰らせた……が。
瞬きひとつの間に二人の目は逸れた。
肩を震わせる紅姫の背を撫ぜ、何か小さな声でなだめていらっしゃる縹の御子のお顔には、愛しい姫を気遣う色しかうかがえなかった。
以来お二人の間に、言うに言えない、実に微妙な隔てが感ぜられる。
少なくともなずなはそう思う。
お二人が仲違いしたとか、そういう訳ではない。
だがそれまでのように、仲がいいご兄妹にして許婚、という、どこか子供っぽい単純な仲ではなくなったらしい。
「そういうものですよ。お二人、特に縹の御子さまは大人になりかけていらっしゃいます故」
「来年の初春には、御子も成人なさいますからね」
紅姫のそばにいる女房達は訳知り顔でそんなことを言い、意味ありげにうなずき合っている。