二 夏越しの宴⑧
御子は何度も瞬き、蚊帳の向こうの女を透かし見た。
『節会の舞姫』の装束かと思ったが、少し違う。これは……。
(一般的な神事の衣装……だ)
王族の者の寝間へ現れる、神事の装いの女。
考えられる可能性はひとつだけだ。
「……なずな。我にその名を、伺候名としてつけて下さるのですか?御子様」
女は顔を上げ、ほのかに笑む。
やや年増だが品のいい、大人しそうな顔立ちの女だった。
「湯冷ましをお持ちしました。まずはのどを潤して下さいませ」
蚊帳の裾をそっと開け、小さな水差しと湯のみの乗った盆を手に、女は褥へ滑り込んできた。
「湯冷ましはともかく。我に采女は必要ない」
素っ気なくそう言う御子の顔を、女は驚いたように目を見開いて見た。
(父君か大王か、あるいは伯父君の計らいか?……余計なことを)
奥歯をかみしめるように御子は思う。
王族の男子は成人前、一度は『采女』の奉仕を受けるのが義務だと聞かされている。
女との閨での行為を学び、成人後、妻と睦みあってきちんと子を成す為に。
大きなお世話だとしか、若く潔癖な縹の御子には思えないが。
ややあり、女はうなずいた。
「わかりました。ですが……何はともあれ。湯冷ましをお飲みになってくださいませ。お熱のせいでお身体が渇いてらっしゃいましょう」
湯のみに注がれた湯冷ましを差し出され、御子はむっとした顔のままで受け取る。
よく冷えた湯冷ましなのだろう、湯のみが冷たい。
口に含むとかすかに柑橘の香りがする。心地よく冷えた水がのどを滑り降りてゆく。
後味に上品な甘味があった。蜂蜜でも少し入っているのかもしれない。
縹の御子は今日、朝から食事らしい食事を満足にしていなかった。
飢えて渇いた彼の身体に、柑橘の香りがする蜂蜜入りの湯冷ましは、思わず大息をつくほど美味かった。
「もう少しお飲みになられますか?それとも、何かお召し上がりになられますか?柔らかく炊いた粥も用意させておりますが」
女の問いに、御子は少しだけ頬をゆるめて答える。
「いや、粥はいい。もう少し湯冷ましをもらおう」
承知いたしました、と女は答え、身を捩るようにして湯冷ましを湯のみへ注ぐ。
御子が湯のみに手を伸ばそうとした瞬間、女が素早く湯のみの中のものを口に含んだので、彼は呆気にとられた。
呆気に取られているうちに女はいざり寄って来る。
そして素早く唇を塞がれた。
体温であたためられた湯冷ましが、驚きのあまり硬直している御子の口中にゆるゆると注ぎ込まれた。
「……なっ、無礼な!」
我に返った御子は、思い切り首を振って女のくちづけを振りほどく。
ぬるくなった湯冷ましがあふれ、胸元を濡らした。
甘みのある柑橘の香りが胸元から匂い立つ。
「……なずな」
唇は離れたものの、頬に息がかかるほど近くに女の顔はあった。
甘い香りの息で、女は御子の耳許へ囁いた。
「なにとぞ、我をなずなとお呼び下さいませ、御子様。今宵は短夜。短夜の夢は、神々すら咎めることは出来ません。我は今宵、貴方様だけのなずななのです」
涼やかな鈴の音が、御子の耳の奥で大きく響いた。
意識に紗がかかる。
再び重ねられた柔らかな唇の、初めて知る得も言われぬ甘さ。
御子はもはや、拒むことはなかった。