二 夏越しの宴⑦
我に返った時、御子は薄暗い寝間にいた。
四方に蚊帳が吊るされた寝間には半蔀が一つ開いていて、澄んだ宵の空気が流れ込んでいた。
横たわったまま彼は、のろのろと辺りを見回す。
自分が何故ここで寝ているのかわからない。
頭に紗がかかったような感じで、何もかもがはっきりしない。
(のどが渇いた……)
だが声を出すのも億劫だ。
深い息をついて寝返りを打つ。
「御子様」
少し離れたところから女の声がした。
そばで控えていた女房の誰かだろう。
「お気が付かれましたか?どこかお苦しいところはございませんか?」
縹の御子はゆるゆるとかぶりを振る。
「特に。ただ、ひどくのどが渇いた」
つぶやくようにそう答えると、かしこまりましたと答えて衣擦れの音が遠ざかってゆく。
(ああ……そうか)
ゆっくりと頭から紗が消えてゆく。
今日は夏越しの宴で、自分はそこで笛を披露した。
今までにない出来で演奏を終え、大袈裟なくらい皆から褒められた。
その後、昼餉が出る頃までは宴の場にいた記憶があるが、そこから先は何も覚えていない。
(どうも……宴の席で倒れたようだな。ここ最近の疲れが出たのだろうか)
笛の練習に力を尽くしていたのは事実だし、最近急に暑くなって、体調が芳しくなかったのも事実だ。
とはいっても、さすがに前後不覚になるまでとは思っていなかった。
自覚以上に疲労が蓄積していたのだろう。
(のどが渇いた……)
唇を軽くなめ、再び彼は思う。
微熱があるのだろう、唇がかさかさに乾いている。
遠くからかすかに喧騒が響いてくるのに、彼は不意に気付いた。
宴はまだ続いている。
成人前の子供は日没と共に宴を辞し、帰るのが慣習であるが、大人たちは夜通し起きて遊ぶのが『夏越しの宴』だ。
即興で歌を作り、披露しあって優劣を競う『歌比べ』は、宴の夜の華として知られている。
時間から考え、『歌比べ』が盛り上がり始めているのだろう。
『歌比べ』は題を出し合い、即興で歌を作って歌い上げる遊びである。
即興とはいってもそれぞれの家で、ある程度は下ごしらえをして臨むのが普通だ。
『夏』『短夜』『緑蔭』『通り雨』『風穴』辺りが毎年題として出てくるので、歌上手たちはそれぞれ、事前に幾つか作歌をしているもの。
その際、品の良い歌だけでなく、下がかった内容すら当意即妙に織り込んで聞く者をニヤリとさせる、懐の深い機知が喜ばれる。
大人でなければ楽しめない遊びであろう。
そして歌比べだけでなく。
この日の夜は『短夜の夢』が黙認されている。
叶わぬ思いを果たす、年に一度だけの機会とされていて、宴の喧噪に紛れて姿を消しても咎められることはない。
『短夜の夢』での逢瀬は不義とされないし、授かった子は神の子として社に引き取られるのが慣習だ。
(……父君はきっと。歌を捻る間も、声を張って歌う間も惜しんで夢をむさぼるのだろうな)
不快な予測に吐き気が込み上げてくる。
大王の夫としてあの男は、さすがに昼の間は澄ました顔で、もっともらしくお役目を果たしているだろう。
が、『歌比べ』が佳境になればそっと席を外して暗がりへ向かい、夢をむさぼるに決まっている。
去年は二人ほど『神の子』があったと漏れ聞いた。
今年は幾人、『神の子』をこしらえるつもりだろうか?
忌々しさに舌打ちしそうになった時、衣擦れの音が近付いてきた。
「湯冷ましと、冷ました粥を持って参りました。お召し上がりになりますか?」
「取りあえず湯冷ましをいただく」
女の問いにそう答えて身を起こし、顔を上げた瞬間。
御子は息を呑んだ。
「……なずな?」
蚊帳越しに、節会の舞姫の装束を身に着けたか細い身体が、蜻蛉のような儚さで畏まっていた。