二 夏越しの宴⑥
それから後のこと、縹の御子は、実はあまりしっかりと覚えていない。
席へ戻り、感激で泣かんばかりに紅姫に迎えられ、照れながらほほ笑みを返したのは覚えている。
伯父君や側付きの者にも大袈裟なくらい褒められ、しばらく後に、畏くも大王から直接、上等の菓子を添えたお褒めの文まで送られてきて驚いた、のも覚えている。
『菓子を添えた文』とは、このような格の高い宴の場などで披露した歌や演奏に、強く心が動いたことを表す贈り主からの私的な感謝や褒美だ。
『褒美』なので、通常演者より高位の者が贈る慣習である。
縹の御子の場合、『高位』に当たるのは伯父君の太政大臣か紅姫、御子の父君たる月影の君。さもなくば、照日の君。
しかし照日の君から『菓子を添えた文』が来るなど、(たとえ身内であっても)過去ほとんど例がない。
素晴らしい誉れである。
震える手で、さっそく大王へお返事を書きながら御子は、どうやら自分の演奏は今までにないくらいの素晴らしい出来だったらしい、と他人事のように思った。
(……鈴の音が、消えない)
何だか夢の中にいるような気分のまま、御子は求められるままに笑ったり礼を言ったり、照れたり喜んだりしていた。
まなかいに揺れる白い袖と耳に響く涼やかな鈴の音だけが、現のように感じられた。
「縹にいさま?」
紅姫に声をかけられ、御子はハッとする。
「膳のものが減っておりませんが。もしかして、食がすすみませんか?」
言われて初めて、昼餉の膳が己れの前へ供されていることに気付く。
右手に、箸が握られているのも。
のろのろと彼は、膳へ目をやる。
彩りも涼やかな五色の煮物。
器が白く曇るほど冷やされている、柑橘の香り爽やかな汁物。
からりと揚がった香ばしい揚げ物に、飾り塩もうるわしい若鮎の姿焼き。
添えられた香の物は、色鮮やかな茗荷と新生姜。
季節のものが美しくも美味しそうに並んでいる。
だがまったく食べる気にならない。
「……そうですね」
彼はそろりと箸を置き、苦笑いする。
「なんだか胸がいっぱいで。せっかくのご馳走なのに食欲がわきません。箸をつけていないので、良かったら側付きの童子たちに分けてあげて下さい」
そう言ったのまでは覚えている。
が、後の記憶は曖昧だ。
あわてたような幾人かの声が、わんわん響いていたような気がしなくもないが……。
すべては、夢の中の出来事のようでもあった。