二 夏越しの宴⑤
奉納舞が終わると慣習に従い、茶や酒、菓子や軽い肴などが各々へ振る舞われた。
それをいただきながら例年通り、貴人たちは小一時間ばかり歓談する。
ただ今年は、圧倒的なまでの奉納舞の素晴らしさに魂を抜かれた者が多いのか、皆々ため息まじりに大人しく、茶や酒を口に含んでいた。
縹の御子もその一人だ。
彼の場合、次の演者だという緊張感もあるのかもしれないが。
「縹にいさま」
眉根を寄せた難しそうな顔で茶を飲む御子へ、気の置ける声音で話しかけるのは紅姫だ。
ハッと我に返り、苦笑寄りのほほ笑みを御子は、心配そうに紅の瞳をゆらす妹……『いもうと』であり、古い言の葉で恋人を指す『いも』でもある少女へ向ける。
「はい、何ですか?」
問われて口ごもり、目を伏せる少女へ、何故か後ろめたいような気分になり、慌てて御子はその感情に蓋をする。
「ああ……ついつい愛想のない態度になっていましたね。お許し下さい、紅姫」
わざと明るい声を出し、御子は笑ってみせた。
「もうすぐ出番だと思うと、さすがに緊張しますからね。ましてやあんなに素晴らしい舞の後では、どんな演奏もかすんでしまうでしょうし。もっとも……そのくらいの頼りない演奏の方が。宴の余興に相応しくて、かえって盛り上がるかもしれませんが」
いたずらっ子めいた笑みを作り、御子は、自分の分の菓子のうち、紅姫が好きな甘い餅を譲って言う。
「今は食べられそうもないので、よろしければ姫が召し上がって下さい。出番が済んだらきっと、餓えたようにあれこれ食べたくなるでしょうから、その時は姫の膳から焼き物か揚げ物でも譲って下さいませ」
ややぎこちなく笑みを返し、紅姫はうなずいた。
「わかりました。焼き物でも揚げ物でもお菓子でも、何でもお譲りいたします。それを励みに頑張って下さいませ」
承知致しました、とわざと堅苦しく言って頭を下げる御子へ、紅姫はようやくほっとしたのか、柔らかい笑声をあげた。
小一時間の後。
白木の舞台に、蝉の羽襲の直衣に身を固め、真白の髪をきりりと大人と同じ形に結い上げた少年が現れた。
成人前であるので冠こそつけていなかったが、細身ながらも堂々とした立ち姿には、臈たけた落ち着きが感ぜられた。
縹色の彼の瞳にはどこか気負ったような色が見えるものの、表情はあくまで凪いでいて、さながら戦場に佇む老練な戦士の如し。
縹の御子である。
楽人たちが前奏を奏で始めた。
『涼風』の銘を持つ銀色に輝く愛器を、御子は静かにかまえる。
(……『涼風』よ)
わななく胸をなだめ、御子は、これまで共に訓練してきた愛器へ心の中で話しかける。
(その銘に相応しい涼やかな音で、我と共に曲を奏でておくれ)
『空蝉』は、蝉のひと夏を表現した曲。
誕生から死までの、人の一生を凝縮した曲とも言われている。
始めに奏でられるのは、広い世界へ生まれ出た喜び。
初めて知る恋の切なさと、その恋を失う哀しみ。
再び心震わせる出会いは、伴侶との恋。
夏の盛りに燃え上がる、生涯に一度しかないすべてを懸けた逢瀬。
やがて来る秋の気配に、命を燃やし尽くした恋人たちは次の世代に命を譲り、消えてゆく。
それを最後まで見ているのは、脱ぎ捨てられ、幹に残されたままの抜け殻のみ。
空蝉の冷たい瞳だけが、虚ろの中に夏の記憶を留めている……と。
そういう曲想になっている。
この日まで何度も何度も奏でた曲を、御子は今、全身で奏でている。
もはや迷いも思考もない。
まなかいに浮かぶのは、研ぎ澄まされた奉納舞。
大気を澄ませる白装束の舞姫の、所作が刻む鈴の音が御子の耳の中で鳴り続けている。
その音を一心に追うように、御子は笛を奏でる。
奏でる。奏でる。奏でる……。
一瞬の静寂。
そして万雷の拍手。
その時に初めて、御子は曲を奏で終えたのだと覚る。
(成功……したのか?)
夢から醒めたように御子は思う。
慣習通り大王のいらっしゃる方角へ一度深く頭を下げ、どこか茫然としながら彼は、舞台から降りた。
耳の中では未だに、鈴の音が鳴っていた。