二 夏越しの宴④
太鼓の音が響いてきた。
夏越しの宴の開始を告げる、奉納舞が始まるようだ。
顔を輝かせた紅姫が、常になく飛び立つように端近へ寄るのに、女房達が慌てて押しとどめようとする。
「まあ、いいではないか。こちらは陽射しの加減から言って、今は外から見えにくい。姫がお気に入りのなずなの晴れ舞台をご覧になるくらいの間、やかましく言うほどでもなかろう」
のんびりとした太政大臣の言の葉。女房達は渋々、控えた。
暑気を払う涼やかな音。
手足に結われた鈴の音と、楽人の奏でる軽やかな笛と鐘の音と共に、白装束に身を固めた舞姫が現れる。
慣習通りに高く髪を結い上げ、目許と口許には朱が差されている。
腕をひと振り。
足をひと踏み。
舞の所作を刻む度に、彼女の手足に結われた銀の鈴がゆれる。
その鈴の音は楽人の奏でる音を絡めつつ響もす。
舞姫は手にした榊の枝で天を指す。
鈴の音と共にすべての音が止み、舞台の空気も止まる。
とん、と、舞姫が右足を鳴らすと同時に、力強い鈴の音がひとつ。
世界は再び動き始める。
腕をひと振り。
足をひと踏み。
ゆれる鈴が涼やかに音を刻む。
『舞』という形の祈りが、鮮やかに世界に刻まれる。
指の先の先まで満ちた祈りの気が、暑気によどんだ大気を澄ませ、舞を見る者の心身をも澄ませる。
まさに神への供物に相応しき舞。
舞と舞い手を寿ぐように、喜ぶ神の気が世界に満ち満ちてゆく。
そう、『夏越しの奉納舞』は決して『宴の前座』などではない。
『神への供物』であったのだ。
いつしか忘れられていた大切な事柄を、舞台を見つめる者は皆、思い出して密かに恥じ入る。
人々がハッと我に返った時には、すでに舞は終わっていた。
舞台中央で深々と腰を折る舞姫へ、一瞬遅れで万雷の拍手が鳴り響いた。
「……なるほど。素晴らしい。これほど奉納舞らしい奉納舞を、夏越しの宴で初めて見ました」
ため息を吐きつつ太政大臣は言う。
彼も、ある程度噂には聞いていたものの、この舞姫がここまで神がかった舞い手だと思っていなかった。
「だから申し上げましたでしょう?」
我が事のように紅姫は胸を張る。
「上手は上手でも半分は紅姫の身びいきだと思っていて、なずなには失礼なことをした。神の気が濃い古ならば、あの子は神の花嫁として召されたかもしれませんな」
「神の花嫁?」
聞き慣れぬ言の葉に怪訝そうな姫へ、太政大臣はやや複雑な感じに笑んで言う。
「人の身でありながらあまりにも神に近き者は、時に神の伴侶として召されるのだとか。主に田舎の方で伝えられている古い話ですが、大昔にはちょいちょいあったそうですよ。ある時、ふっと姿を消した子が、数十年後に若い姿のまま戻って来ることもあったそうです。その場合、娘なら神の子を身籠っていることもあったとか。神と成した子を連れて戻ってきた若者もいたそうです。神の血をひく子は皆、大層秀でていたそうですから、召されて戻ってきた者とその子は、氏族中から大切にされたのだそうですよ」
まあ、と紅姫は、その呼び名の元になった紅の瞳を瞬かせる。
「神に召されるって名誉ある有り難きことでしょうけど……なんだか、少しばかり怖ろしいですね。なずなは大丈夫かしら」
最後はつぶやくようにそういう姫へ、太政大臣はカラカラと笑った。
「ははは。神より人の気が濃い昨今、そんな奇跡は起こり得ませんから、どうぞご安心くださいませ」
そこでふと、紅姫は気付く。
自らのそばで奉納舞を見ていた縹の御子が、一言も発せず茫然としていることを。
「縹にいさま?どうなさったのですか?」
声をかけると、縹の御子はハッとしたように肩をゆらし、首を傾げるようにしながら紅姫を見た。
なんだか夢から覚めたような目をしている、と、どこかぞっとしながら姫は思った。
「あ……いえその。あまりにも圧倒的な舞に拉がれる思いで。一時間ばかり後とはいえ、次の演者である我は身の置き所がないといいますか肩身が狭いといいますか……」
ぎこちない笑みを浮かべてそういう彼へ、太政大臣は軽く背を叩いて言う。
「何をおっしゃる。少し前にあなたの笛をお聴きしましたが、あの舞に遜色ありませんでしたよ。いつも通りに奏でれば、なずなの舞にもひけは取らないかと……」
「まさか」
引きつる頬で、御子は苦く笑む。
「慰めて下さるのは有り難いのですが。それこそ身びいきです、伯父君さま。あの舞と我の笛とでは次元が違います」
大きく息をついた後、一度きつく、御子は目を閉じる。
そして何かを思い切ったように目を開け、ふてぶてしさを感じさせる笑みを浮かべた。
「最善を尽くす、我に出来るのはそれだけですね」