二 夏越しの宴③
貴い方々の席からよく見えるよう設えられた、この宴の為だけの白木の舞台。
まもなく奉納舞が始まる。
すべての身支度を整えた、今年の舞姫が出番を待っている。
楽人たちが音合わせをしているのを見るともなく見ながら、『なずな』という伺候名をいただいて紅姫に仕えている少女は、ほっと息をついた。
見上げると、梅雨明けしたばかりの空はどこまでも青く、美しい。
急にきつくなった陽射しに思わず目をすがめ、彼女は、額ににじんだ汗をそっと手の甲で押さえる。
手首と足首に結ばれた銀色の鈴が、かすかな音を立ててゆれた。
紅姫に仕えて四ヶ月ばかり。
なずなは己れの立場がこうなったことに、まるで夢を見ているような心地がしていた。
そもそも王都に来ることなど、一年前どころか半年前でさえ、彼女は夢にも思うことなどなかったのだから。
なずなは北の国・鶺鴒の里の主の、総領娘だ。
この地の古くからの慣習に従い、里の主の総領娘は氏神を祀る社の巫女となる。
昔ほど厳密ではないものの、総領娘は普通、婚姻せず神に仕えて暮らすのがしきたりだった。
なずなもしきたり通り、十歳になる新年から社で見習いの巫女として務めてきた。
大伯母に当たる、社の一の巫女に付いて三年。
一人前の巫女になる直前、突然社へ都人がやってきた。
「実は畏き方の付き人に、刺繍の上手な娘を探しているのです。と申しても、ただ刺繍が上手なだけではとてもかの方のおそばにあげる訳には参りません。鶺鴒の総領娘である姫は、並ぶ者のない刺繍上手とか。こちらの姫は古くからの名家・鶺鴒の直系の血筋であり、巫女見習いとしても真摯に務めていらっしゃるご様子。名家の血筋であり、真面目に骨惜しみせずお務めに励む人柄であり、並ぶ者なしの刺繡上手。是非姫に、かの方のおそばで務めていただきたい。否、この条件に見合うのは鶺鴒の姫だけとお見受けする」
品の良い都人の使者に恐ろしいまでに褒め称えられ、熱心に宮仕えを勧められた。
支度金なども相応以上に用意するとまで言われた。
降ってわいた名誉に、親をはじめ一族の者は浮かれた。
大伯母である社の一の巫女だけは難しい顔をしていたが、何度も慎重に占を行い、ため息まじりながら祝福してくれた。
「なにやら大それた相が出ている。出来ることなら行かない方が、お前は気楽な人生を送れるだろう。が、行かないと世界が激しく歪む、という相でもある。どうも畏き辺りが本当に、お前を必要としているようだ。そこで務めることが、この三年ここで神に仕えてきたのと同じかそれ以上の意味があると読み取れる相でもある。神に最も近い畏き方々へ、お前は巫女のつもりで仕えなさい」
まるで脅すような言の葉であったが、大伯母がごく真面目に、彼女なりの心配や配慮をにじませながらそう言っていることはわかっていた。
若い頃から神に仕えるのを第一に生きてきた大伯母は、優しさやいたわりの態度を示すことはあまりない人であった。
が、彼女の心根は裏表なく真っ直ぐで、なずなを一族の郎女の中でも特に大切に思っているのも知っていた。
真幸くあれ、と彼女は、社へ来た頃からずっと肌身離さず持っていた小さな守り刀を、餞別として渡してくれた。
今でもその儚い守り刀を、なずなは懐深くに仕舞っている。
(大巫女さま)
常に呼んできた呼び名で、心の中で彼女は大伯母へ呼びかける。
(教えを胸に、舞います)
大巫女の教えの中で、神楽の修練は特に厳しかった。
指の先の先まで気を巡らせるよううるさく注意され、足さばきひとつでもいい加減にするなど許されなかった。
形は霊力だ、と、彼女はよく言った。
正しく美しい形には正しく美しい霊力がよりつくが、いい加減な形にはいい加減な霊力しかよりつかない、と。
(舞の所作は、古より洗練を重ねた『形』。おろそかにするな!)
なんと厳しい、となずなは、べそをかきかき修練に励んでいたが……ある瞬間。
ふっ…と、その意味を全身で理解した。
所作のひとつひとつが何故か軽い。
さながら空に浮いているような心地。
冴えて澄んだ心地の中、なずなは思わず胸でつぶやく。
(これが……神の境地)
なずなはその瞬間、人であって人ではなかった。
『舞』という限られた形の中、なずなの魂は神々の住む境地で、何にもとらわれることなく羽ばたいていた。
舞い終わった後、大巫女はなずなを見てほんのりと笑んだ。
「見えたであろう?常にその境地へ至るのは無理でも、一度でも知れば何が本物で何が偽物か直感でわかるようになる。お前は……、巫女だ」
あの時のように舞えるかはわからない。
だが『夏越しの祈りを込めた舞』の形は、きちんと身体に叩き込んだ。
あとは無心で、その正しい形を全身全霊で大気に刻む、のみ。
落ち着く為に何度か大きく、彼女が息をついた次の瞬間。
奉納舞の始まりを告げる、太鼓の音が響き渡った。